Trash and No Star

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廣野由美子『シンデレラはどこへ行ったのか』書評|「一文無しの孤児」が広げたもう一つのストーリー

 平置きされていたわけでもないのに、何となくタイトルと目が合った。副題に入っている『ジェイン・エア』はおろか、『赤毛のアン』も、『若草物語』も、『あしながおじさん』さえも読んだことがないのに、先日読んだ『お姫様とジェンダー』の問題意識を継ぐようなニュアンスをそこに感じたのである。

 自分の考え過ぎだろうと思って目次をパラパラめくると、問題設定の根っこはやはり「シンデレラ・コンプレックス」であり、終盤ではディズニー映画への言及もあるようで、まさにこれは自分が待っていた本かもしれないと思い、そのままレジへ向かった。直感が当たったのか、序文には『お姫様とジェンダー』への言及もあるではないか。

 

 とはいえ、本書の主眼はディズニー映画の表象分析ではない。著者の狙いは、「脱シンデレラ・コンプレックス」の系譜に立つ少女小説を、プリンセス映画に負けないほど少女たちを勇気づけ、励ましてきた一つの体系として、歴史の泥水の中から掬い出し、ぴかぴかに磨き上げ、つなぎ合わせ、正当な評価を与え直すことである。

 その原型をジェイン・オースティンの1847年作『ジェイン・エア』に求めることの批評的な大胆さがどれほどかは、残念ながらこの一群の作品を読んだことのない自分には分からないのだが、個別の作品の概説にも多くのページが割かれており、内容はよく理解できた(つもりだ)。

 

 確かに、これらの「脱シンデレラ」の物語においても、少女たちは健気であることによっていつかは報われるかもしれない。しかし、それは王子様に選んでもらうことによってではないのだ。

 思い出してみよう。「シンデレラ・コンプレックス」の物語が、女子たちにかけた呪いの数々を。「若く美人でなければ人生の物語は回り始めない」。「美しさを磨き、辛抱強く王子様を待ち続けることが幸せへの唯一の近道である」。「恋愛的達成=結婚こそが、人生で最大かつ最後の目標である」。

 ジェインはそんな偽物の世界に、「貧相な容貌」と「激しい情念」を備えた「一文無しの孤児」として登場した。彼女は美しいドレスを仕立てて王子様と踊るのではなく、勉学に励み、「言葉の力」を磨き、自らの仕事を得ることで試練に立ち向かっていく。そこでの少女たちは、従順さではなく野心を持つことさえ拒まない。

 そしてその「娘たち」は、本国イギリスではなく新大陸アメリカで多く誕生し、『ジェイン・エア』からの影響をほとんど直接に表明しながら、シンデレラとは違う自立した女性像を確立していった。それは、王子様が自己実現する上での客体(=トロフィーワイフ)に過ぎなかったシンデレラたちが、待つことを辞め、ドレスを脱ぎ捨てて自らの人生を歩み出す物語である。

 

 あえて比較して言えば、『お姫様とジェンダー』のような、ある種の戦闘性やテンポ感みたいなものは本書にはない。だが、あとがきに「これまでの文学研究の道筋を振り返り、ひとつの区切りとして、少なからぬ勇気を奮って書き起こした」とあるとおり、落ち着いた筆致の中にも情熱が宿っている。

 やや感傷的な言葉を使えば、それはこれらの児童文学や少女小説といった――もしかしたら文壇の中ではそれだけで二級小説に位置付けられてしまうかもしれない――物語に対する胸いっぱいの「愛」である。

 

 その愛ゆえ、だろう。著者は、子どもたちが小さい頃に接する物語が、大人が思っている以上に読み手へ影響を及ぼし、場合によると人生を深いところで規定してしまうかもしれない、という危機感があるのだと思う。

 それは、若桑みどりが『お姫様とジェンダー』に書いていたように、「いくら制度や法を整備しても、内側からジェンダーを再構築してしまうのは、ひとびとの内面に刷り込まれた意識だから」でもあろうし、「子どものことから読み聞かされたこの物語が、少女の心の奥深くに根を下ろすことから生じる現象が、シンデレラ・コンプレックスにほかならない」という著者自身の問題意識からくるものでもあるだろう。

 

 そんな本書は、「シンデレラ・コンプレックス」の発火点であるディズニー映画が、自己反省としての改良作を意識的に作り出していることを確認した上で、「ジェイン・エア・シンドローム」の先にあるいくつかの弊害に関しても自覚的な言及を行って終わる。

 そこでは、シンデレラ・コンプレックスを克服した少女が、やがて自立的な成長や成功を収めていく先で、「母」として娘を抑圧する側にまわってしまうというジレンマも描かれている。それは、「ジェイン・エアになれなかった少女たち」の物語をも示唆するだろう。

 また、著者が提唱する「ジェイン・エア・シンドローム」の作品群は、男の「男らしさ」を解除する物語としても読めるだろうし、後半の『木曜日の子どもたち』(ルーマー・ゴッデン)の分析に見られる「意地悪な姉」のライバルとの関係性は、『ガラスの仮面』(美内すずえ)などの少女漫画分析にもつながる話なのではないか、と思った。

 

 これが何かを誘発する予感がするのは私だけだろうか。本書を契機に、「あれも・これも」という話が広がることを、門外漢ながらに楽しみに待ちたいと思う。

 その一方で、この本が意図的に使うのを避けた、もしくは使う必要がないと判断したであろう言葉が「フェミニズム」であり、その定義として、「女性の権利の拡張を要求するもの」だとしているのは、少なからぬ瑕疵だという点は最後に指摘しておきたい。

 このブログでも何度も学んできたとおり、フェミニズムとは、「女性が女性であるままに尊重されることを要求するもの」ではなかったか。ここを取り違えると、「ジェイン・エア・シンドローム」の物語と言えど、「本人の頑張りさえあれば報われる日がくる」≒「報われないのは努力が足りないから」というメッセージに傾きかねない。この抑圧の構造はもっと自覚されるべきだったと思う。

 

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著者:廣野由美子
出版社:岩波書店岩波新書
初版刊行日:2023年9月20日