Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

若桑みどり『お姫様とジェンダー』書評|プリンセスをやっつけろ

 娘にどう育って欲しいかなんて別にないし、日々の生活で手一杯だと思う一方、読書の中で「文化資本」などという言葉が目に入ると、やはり環境は大事なのかしらなんていう邪な気持ちが芽生えてくる。

 しかし親が子どもの接する文化を検閲するのはむしろ人生を拘束することになるのではないか、いや、長期的に見れば逆にそれこそが自由を与えることになるのだろうか、しかし親がすべきなのは、世界に必要なものと、そうでないものとを見分ける目を養ってあげることではないか、そのためにはごちゃ混ぜの現実の中に放り込んでやるべきなのではないか、などとぐるぐるやっている間に、まんまとディズニー・プリンセスとプリキュアだらけの部屋になってしまった。

 

 プリキュアには漠然と良い印象を持っていなかったが、試しにアニメを見てみると、意外にも殴る蹴るの戦闘アニメである。聞くところによると、アニメ史的にはドラゴンボールの系譜にあるそうだ。

 女の子が、魔法の力を使いながらも、互いの協力や仲間を信じる精神、時には単なる気合や根性によって自分たちの道を拓いていく仕立てであり、まあこれはこれで許容することにした。バンダイバンダイによるバンダイのためのアニメ、という気もしなくもないが。というかどう見てもそうなのだが。

 

 一方、やはり許容しがたいのはディズニー・プリンセスである。特に、初期の代表作である『白雪姫』、『シンデレラ』、『眠れる森の美女』といった作品群の女性描写はなかなかひどいものがある。

 それをジェンダーの観点から批判的に分析する本書のような本が広く流通しているのならば心強いが、しかしこれらの作品は装いも新たに、今日も日々、女の子への祝福を装った「呪い」の物語として抜かりなく配備されている。

 

 これらの作品群が女の子に教えるのは、まず第一に、若く美人でなければ女性は価値がなく、人生の物語は回り始めないということである。そして第二に、美しさを磨き、辛抱強く王子様を待ち続けることが幸せへの唯一の近道であり、また美徳であるということである。さらには第三に、恋愛的達成=結婚こそが、人生で最大かつ最後の目標だということである。

 こんな価値観を信じている人なんて今時いないと、あなたは笑うだろうか。であれば、なおさら本書を手に取るべきだ。著者が大学で行った講義で、二十歳前後の学生たちはディズニーの物語に染まり切った「素朴な」感想をロマンティックに披露しているのだから。当然、こうした価値観が徹底された時に得をするのは「層」としての男である。

 こんなメッセージは女の子に知恵を与えるどころか、生えかけた翼さえ根こそぎ奪い取ってしまうものだ。本人が楽しんでいるのは間違いないとはいえ、このような構図の作品が我が家で垂れ流されているのを見ると、娘のジェンダー化に加担しているという申し訳なさがあるし、こうした作品を野放しにすることは「文化的詐欺」だと著者は言う。そのとおりだと思う。

 

 もっとも、今となっては分かり切ったこの手の単純な批判をここで繰り返しても仕方がない。問題は、ディズニーのジェンダー的反省も踏まえて作られた(であろう)後年の『リトル・マーメイド』や『美女と野獣』といった作品である。

 このあたりの作品はいまだに現役的な人気が衰えず、我が家でも猛威を振るっている。それがどういうことなのか、本書の延長として読者それぞれが考える必要があるだろう(すでにプロの手によるまとまった論考はいくらでもあるだろうが)。

 

 『リトル・マーメイド』に関して言えば、アリエルは身分こそ王家ではあるが、とにかく行動するプリンセスである。彼女は「父」の教えに背いて人間界で恋に堕ち、人間の姿になるために魔女と取引するリスク・テイカーとなって、主体的に行動するのだ(彼女は「契約」を結びさえする)。また、エリック王子との人種的な隔たりを匂わせる「人魚と人間」という設定にも多少の厚みがある。

 しかし、二人の恋の動機はアリエルが出会いのシーンで「ハンサム!ハンサム!」と連呼することに尽きるように、やはりどちらの側から見てもルッキズムなのである。いかに美しい声を持つアリエルといっても、彼女が美しい人魚でなければエリックは振り向かなかっただろう。実際、彼は魔女・アースラが化ける美女にいとも簡単に心を奪われてしまうのだ。

 おまけに、最後はエリック王子がアースラを倒し、人間の姿となったアリエルが花嫁として迎えられる、という結末であり、結婚が人生の到達点として描かれることにはなんら変わりない。やがてアリエルは行動するプリンセスの座を降り、ただの「泳ぐシンデレラ」となり、魔法は解けてしまう。

 

 一方、『美女と野獣』は、まずヒロインの身分的な制約を解除した点が目新しい。ただ、「街で一番の美女」でなければヒロインたり得ない構図は変わっていない。また、ルッキズム的なものへの措置として、ベルは「野獣」的外見の男と恋に落ちるわけだが、ベルの愛が報われるのは、結局のところ、「実は野獣は美しい王子様だった」という隠された事実が明らかにされることによってなのだ。

 

 これらの作品は、見ようによっては「ある程度マシ」になったと相対的に評価することもできなくはないだろう。だがこうやって冷静に内容を点検していくと、表面的にはプリンセス像を自己反省的に刷新しているように見せておきながら、根っこは変わっていない事実が明らかになってくる。

 詳しい言及は控えるが、「森の奥の塔に幽閉されたプリンセス」という極めて伝統的で図式的なプリンセスと見せかけて、「母」の言いつけを破り、思い切った行動を起こさせる『塔の上のラプンツェル』や、王子様との一目惚れ的結婚を打ち砕く『アナと雪の女王』などに見られるように、ディズニーが送り出すプリンセス像はその後も変化している。

 もちろん、それは倫理というよりは、大企業の「いちコンプライアンス」としてのリベラル的振る舞いなのだろうし、要するに新たな顧客(プリンセス)を取り込んでいくための資本主義的な進化なのだという点には引き続き注意が必要だろう。

 

 こうした指摘自体、口うるさく感じる人もいるかもしれないが(本人が好きならいいじゃん?)、しかし本書が指摘しているのは、いかにアニメや映画を含む「文化」が人の内面を規定してしまうのか、である。自分も文化の力を信じる人間として、この点には強く同調しておきたい。

 ただ好きな物語を読み、好きなドレスをまとっているだけに見えても、彼女たちはすでにディズニー・プリンセスという呪いにかけられているのだ。『リトル・マーメイド』の実写化は、「魔法にかけられた」日本女性のブロンド崇拝がいかに強いかを示す結果にもなった。影響は相当に根深いのだ。

 こんな時代に王子様を待ってはいられない。「人生で一番頼れるのは自分自身だ」と思えたら、きっとその先へと進めるのだ。そう思わせてあげないといけない。「女の子」を育てるすべての親に薦めたい、「プリンセス」という呪いと戦い、夢から目覚めるための痛快なジェンダー入門書だ。

 

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著者:若桑みどり
出版社:筑摩書房ちくま新書
初版刊行日:2003年6月10日