1000字書評ブログ “Trash and No Star”

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黄インイク監督『緑の牢獄』映画評|越境者よ安らかに眠れ

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 かなり身構えて劇場に向かった。沖縄の離島、台湾からの移民、そして炭坑。こういった題材が交わる場所で撮られた映画が、たとえある時代を生き延びた一人の老女の余生を追ったものであるにせよ、決して穏やかな内容で済むはずがないからだ。

 むしろ、沖縄の離島、西表島に打ち捨てられた炭坑に宿る記憶はどれほど残酷で、悲惨なのだろうかと。言うなれば映画版の『まっくら』、そんなものを目撃したいと。そんな欲望さえ感じていたことを、私はまず白状しておかなければならない。

 

 しかし、そうではなかった。確かに、この映画は西表炭坑の悲惨さを追ったものではあるだろう。事実、この映画を観ることによって、人はこの島のことを「マリン・アクティビティを楽しめる、ジャングルとマングローブの沼地が広がる美しい島」としてではなく、多くの命が失われた「死人の島」として知り、記憶し直すことになるのだから。島は、映画の被写体になることなど造作もないといった様子で、獰猛さを隠すこともなく堂々とカメラに収まっている。

 この島にかつて炭坑があり、内地からも、沖縄本島からも、そして台湾からも労働者が集められた。苦しくなってケツを割ろうにも、どこへも逃げ場はなく、ジャングルの中で皆飢えて死んだ。あるいはモルヒネ中毒にされて、力尽きるまで働いた。いずれにしても似たようなものだ。逃げ場のない、巨大な緑の牢獄の中で、たくさんの人が生き、人知れず死んだ。それが幻想的な再現映像の重ね合わせや、関係者のインタビュー映像も交えつつ、現代に伝えられる。

 

 繰り返すが、しかし「そうではない」のである。本作は、あくまで一人の女性の人生をめぐる映画なのだ。およそ80年前、当時10歳の少女・橋間良子は、将来の嫁ぎ先となる家に渡され、そこで義父となった男に台湾から西表に連れて行かれた。やがて戦争が終わり、炭坑が終わった後に、一度は故郷に帰るものの、家族揃って西表島に戻り、以降、2019年に息絶えるまでそこで暮らした。台湾と沖縄と日本の間を行き来する言語的な揺れにも人生が刻み込まれている。

 家族はもう誰もいない。2人の息子がいるが、音信不通だ。家の掃除、料理、弱ってきた腰を診てもらうための通院や健康診断、それがいまの彼女の生活のほぼ全てである。一生分のドラマがすでに終わっており、あとはもう何も起こらない。時が完全に止まったかのような狭い部屋で一人、「もうすぐ会えるからね」と祖先たちに手を合わせる。たまに家から出たと思えば、不機嫌に雑草を抜いたり、犬や鳥たちに悪態をついたりしている。

 

 炭坑に関しての語りは断片的で、彼女が「証言者」として果たした役割は部分的だ。想像するに、炭坑に労働者を斡旋していた彼女の養父は、現場に「さがって」いく炭坑夫たちから見れば、疎ましい監督者だったに違いない。その養子である彼女が易々と時代の証言者になろうとしないのは、記憶の重さゆえか、それとも彼女の抱える被害と加害の二重性ゆえか。それでも、カメラは忍耐強く、ただそこにいる。あまりに階級的な手や、顔。テレビの前のうたた寝すら映画になってしまう不思議に心を奪われつつ、何かが起こりそうな予感も常に付きまとっている。

 そしてその瞬間は、突然訪れる。相手が誰かはここでは言わずにおくが、ある写真を見上げ、無言で見つめる老女の表情がスクリーンにそっと映される時、時間は完全に止まってしまう。そこでようやく、老女の生きる世界で時間はこんなにも「流れていない」のかと、観る者は予期せぬ甘美さの中で思い知ることになる。私たちは一度だってこんな表情で人を見つめたことがあるだろうか。それに引き換え、一体この人は何回、この表情でこの写真を見つめてきたのだろうか。ああそうかと、私たちは想像する。今この場所にいながら、この人の魂はどこか遠い場所に置いてきたのであり、もしかしたらそれはすでに失われているのだと。

 

 一つ、単純な事実を指摘しておくと、この老女にとっては、居住する国についても、就く職についても、あるいは結婚する相手についても、自己決定権など無に等しかった、ということがある。それはちょうど、彼女がちょっとした共同生活を送るアメリカ人の男が、彼女と同じく故郷を捨てさせられた身である一方、終わらぬ自分探しのジレンマの中で迷走していくのとは対照的だ。

 自分で選んだものは何一つない。であれば、残るのは虚しさだけだろうか。西表に残り、まやかしの幸福を懐かしんでいるだけの哀れな存在なのだろうか。言葉で語らえる「正解」は何もなく、映画は最後、一つの完全な「沈黙」へと達する。映画館を出てから今この瞬間まで、あの表情を思い浮かべながら、自分は何を観て、何を知ったたことになるのだろうか、ということをずっと考えている。そして、彼女の死によって何が失われたことになるのか、ずっとずっと考えている。