Trash and No Star

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大門正克『語る歴史、聞く歴史』書評|誰かの「正史」のための素材ではなく

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 傾聴、という行為がビジネススキルの一つになるような時代である。著者の言うとおり、今は「聞くことへの関心がひろがっている時代」なのかもしれない。

 

 副題のとおり、オーラル・ヒストリーについて、150年の歴史をたどった一冊だ。もっと早く、「聞き書き」という言葉を知ったタイミングで読みたかったな、というのが読後の第一声。大まかに分けて、そこには「政治の歴史」と「民俗の歴史」という、二つの流れがあるようだ。

 個人的な関心は後者だが、その範囲内だけで言っても、柳田国男宮本常一などの民俗学から、森崎和江上野英信らが関わった炭坑労働、あるいは「からゆきさん」や「沖縄戦」、直近では「東日本大震災」まで扱っており、人が人の語りにどのように向き合ってきたのかを実直な言葉でまとめている。

 

 自らの農村調査において挫折を経験してきた著者の立場を考えれば、御厨貴批判は当然か。この世には「文字に残りにくい歴史」というものがあるのである。それは「文字を書けない人びとの歴史(大門正克)」であり、「文字に縁なく、そんなものを無視して暮らす人びと(森崎和江)」の経験である。

 『文藝』の特集「聞き書き、だからこそ」では、「言葉を出せない状態にさせられている人、放っておいたら誰からも言葉を聞かれることがない人たち(高橋源一郎)」と表現されていた。誰かが文字に残さなければ、それらは永遠に忘れ去られ、なかったことになってしまうのだ。

 とは言え、この対立は必然である。「民俗の歴史」は、柳田国男の時代から、中央的な、権威的な歴史学を批判する効果を持っていたのだから。森崎和江の言葉を借りれば、それは「庶民が常に素材化されてきた歴史」である。私たちは、それは越えていかなければならない。

 

 重要なのは、多分、「丸ごと聞く」ということである。著者自身、調査の経験から、「聞き手が聞きたいこと」と、「語り手が語りたいこと」がしばしばズレていたことに思い至る。著者は理論化を試みているが、素朴に言えば、最後に残るのはただただ「他者と出会うこと」への畏怖ではないか。

 だからと言って、これらの営みをすべて「身体性」といった言葉に還元してしまうことに戸惑いはある。なぜなら、聞き書きのもう一つの現場は、それが読まれている「紙の上」でもあるはずだから。「それでも文字というメディアを選ばなくてはならない理由」という点がやはり、残ると思った。

 

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著者:大門正克
出版社:岩波書店岩波新書
初版刊行日:2017年12月20日