Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

森崎和江『まっくら』書評|生きてても生きてないのと一緒

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 焼き尽くされた詩の残骸のような、「はじめに」から圧倒される。「ママ、かえろう」という娘の手を握り、まだ小さい息子をおんぶしながら、女は炭坑の町を見つめている。ニッポンへの、近代への、男への、そして女である自分への憎悪を何とかこらえながら。この地で、「日本の土のうえで奇型な虫のように生きている私を、最終的に焼きほろぼすもの」を見つけるために、彼女はそこに立っていた。

 

 森崎和江のデビュー作。筑豊の炭坑町に移り住み、「女炭坑夫たち」からの聞き書きを断片的な考察とともにまとめている。

 私が読んだのは、1961年に理論社から出版されたものに、「赤不浄」を追加した1977年の再発版。本書の続編ともいえる『奈落の神々ーー炭坑労働精神史』(1974年)から移植した一編だ。ただ生活のために、タブーを破り、股から血を流しながら炭坑を「さがって」いった女が見た、神さまの姿。

  

地の下ににんげんが入ると、生きとっても生きとらんのと同じことげなばい。神さんにも。それはそうだろうねえ、地の下を一里も二里も行くとじゃもん。生きとっても生きとらんのと同じじゃろう。ここから折尾のもっと先まで、地の下を行ってしまうとだから。もう神さんには見つけられんばい。

 

 地上に広がる太陽の国からすれば、炭坑とは、太陽を見ずに暮らす死者たちの国だった。もっと象徴的に言うなら、「おてんとさまの恵をうけて、種子をまき、収穫をして、生き継いでいた日本人」が標準だとすれば、坑夫たちは間違いなく異端だった。

 

 言うまでもない。ここにあるのは、むき出しの「被害」である。著者はまず、その現実を苛烈に描き出す。しかし、決してそれを「被害」だけには還元させない。人間が人間として扱われない空間で、それでも伝承されている何か。それこそを見出そうとしていた。

 結果、著者が出会ったのは、真っ暗闇の中で育まれていた女炭坑夫らの「底抜けの開放性」のようなものだった。自らを焼きほろぼすもの探しにいったはずの著者は、そこに人間の理想を見つけてしまったのだろうか。そうかもしれない。あるいは目的論的に、最初から人間の理想を探しに、「悲惨」の現場へと入っていったのかもしれない。

 ならばそれは間違っていると、時代のあと知恵として、わかったようなことを書くことはいくらでもできる。しかしこの聞き取りをやり直すことは、もう誰にもできない。その事実が、あまりに重い。 

 

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著者:森崎和江
出版社:三一書房
初版刊行日:1977年6月30日