この国で、女の子として育ち、生きるということ。そして、この国で、女の子を育てるということ。それがこんなにも、ハードなことだとは思わなかった。ウンザリするようなニュースの山、山、山。その気付きは同時に、自分がこれまで出会ってきた女性たち全員が、一人の漏れもなく、このハードさの中を生きてきたサバイバーなのだという事実を、私に突き付ける。
私はだから、上野千鶴子の本を、単純に称賛することができない。私は撃たれているのである。本書で使われている平たい言葉を借りるなら、ただの「オッサン」が、「上野千鶴子を読んだことのあるオッサン」になったに過ぎないのだ。そのことは、自分がこれまで加担してきたもののおぞましさを少しも低減してはくれない。それでも懲りずに、この本を買ってきたのだが。
内容について、少なくとも著者の代表作を読んでいる人に向けて、新たに付け足すようなことはほとんどない。中高生程度の読者を想定した、一問一答形式のジェンダー入門書だ。
件の祝辞がそうであったように、著者が撃つのは一貫して「環境」である。自分の置かれた環境を、変更不可能な初期値として受け止め、そこで「先生のよい子」として適用しようとするのではなく、「わきまえない女」としてその環境自体を変えようとすることも可能であること。読者の視線をあの手この手で、その先へと誘導している。
仮に、「先生のよい子」としてそのまま適応を続けた場合、何が起こるのか。待っているのは、歪んだ定規を用いた「一人前の組織人」としての適合検査である。審査員の男は、「家で身の回りのことを全部やってくれる家政婦としての女性(母or妻)がいるから」こそ、彼らが定義する意味においてのみ、一人前でいられるのである。
その裏事情を知らないと誰だってつぶれてしまうし、「女性にもチャンスを与えたのにつかみに来ない」みたいな自己責任論にごまかされてしまう。執念深く、何度も言及されているように、ジェンダー平等とは、「女も男並みに頑張りますから仲間に入れてください」ではないのだ。
もちろん、こうしたハードさは、女の子だけが背負わなければならないものではない。せめて「上野千鶴子を読んだことのあるオッサン」として、娘たちの側に立っていきたいと思う。
繰り返し、繰り返し、女の子たちが「冷却」されてしまう世界では、繰り返し、繰り返し、女の子たちを温める言葉が必要だ。
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