Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

雨宮処凛『「女子」という呪い』書評|うかつに女なんかやってらんない

 読みながら、せめて2004年くらいの本であって欲しいと思っていたが、2018年の本だった(元の連載は2012年開始)。回想が多いとは言え、衝撃的である。社会は本当に、少しでもマシになっているのだろうか。まったく自信がなくなるような一冊である。

 そう、ここでもまた、男の読者でもオッサンどもの金玉を蹴り上げたくなるような醜い逸話の数々が暴露され、自分の股間も蹴り上げられているような気になるほどハッキリと、男どもをめぐる告発と逆襲が繰り広げられている。

 

 反貧困の時の「生きさせろ!」のイメージが強烈な上に、右翼にいた過去もあるとかで、とにかくいろいろと混み入った人だというイメージがあったし、事実、本書でも著者の自分探しと承認欲求でギザギザになった10代・20代が切実に描かれているのだが、40代になり、いったんそれらの「片付け」が済んだ状態で書かれた本書には、ある種の軽さが感じられる。そうした飛び道具なしの筆致が、意外にも読みやすい。

 

 逆に言えば、すでに何者かになった雨宮処凛が、それでも逃れられない呪いとして向き合わざるを得なくなったもの、それがまさに「女子」という呪いであり、ラベルだったのだと思う。書くべきものを、書くべき時が来た。どこかそんな必然性を感じさせるパズルのハマり具合である。

 著者がユニークなのは、20代の前半をキャバクラ嬢として過ごし、ある意味では「女はこうあるべき」という女をあえて演じ、オッサンたちからお金を得るために、数多のモヤモヤをスルーしてきた自覚があることだろう。生存をかけた生活の中で、それはやむを得ないことだった。

 しかし、スルーしたものが著者の上をただ通り過ぎていったわけではなかった。キャバクラでの、日常生活での、あるいはメディア越しでのちょっとした違和感は著者の中に蓄積され続けていた。当時のポジションがどうあれ、それを覚えていたことがここでは重要だと思う。うかつに女なんかやってらんない、というのが当時の肌感覚だったという。

 

 「わきまえ女子」は、短期的には得をすることもあるのかもしれない。彼女たちを優遇するオッサンどもが社会の上層部にいる以上、それは構造上の必然である。著者もかつてはそこにいた。

 だが40代になり、武装も不要となり、「若い女」扱いされなくなった今、長らく封印していたジェンダーへの疑問が爆発したという。その気付きが、例えば上野千鶴子のような先達に道筋を見い出したり、あるいは自らの青春狂騒曲と混然一体となったりしながら押し寄せる。まさに爆発である。
 

 著者はやがて、同時代を生きる/生きた何人かの同志たちと連帯し、あるいは弔いをしながら、世界に共鳴する女たちの声にも耳をすませる。#MeToo、#MeToo、#MeToo。私の痛みも、あなたの屈辱も、ぜんぜん当たり前じゃないよと、著者は言っている。こんなことはもう終わりにしようと。気付いたその日からフェミニズムが始まる、それで遅すぎることはないのだと思った。

 

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著者:雨宮処凛
出版社:集英社
初版刊行日:2018年4月10日