The Bookend

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チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』書評|出口のない迷路に放り込まれ、心を壊していくまで

 これはディストピア小説である。が、舞台はどこかのSF的近未来でもなければ、完全監視型の独裁国家が牛耳る暗黒大陸でもなく、現代韓国だ。地獄を描くのに、特殊な寓話的設定などもはや不要ということなのだろう。女性たちが生きる現実そのものが、すでに十分すぎるほどのディストピアなのだから。

 どこまでも引き延ばされていく、終わりそうで終わらない悪夢。彼女たちは結局、あらかじめ予期された破滅を回避することができない。エンディングが巧妙に再現するように、女に生まれることは、出口のない迷路に放り込まれることなのだ。その徒労感。これは私の見当違いかもしれないが、読後感はフランツ・カフカ安部公房のそれである。

 

 これだけのヒット作に対し要約的な紹介が必要かどうかは疑問だが、未読の人に向けて、少し内容をまとめておく。

 本作は、キム・ジヨンが3人兄弟の二女として1982年に生まれ、ミソジニーが渦巻く韓国社会の中で成長し、進学し、結婚し、やがて子どもを持ち、「それゆえに」心を壊していくまでの物語である。

 訳者のあとがきによれば、「キム・ジヨン」とは、1982年に生まれた女性の中で一番多い名前なのだという。そこに、1982年生まれの画家・榎本マリコによる、顔をくり抜かれた匿名的な女性のイラストがオーバーラップする。そう、ここでのキム・ジヨンとは、誰でもなく、しかし同時に誰でもあり得る顔を消された存在なのだ。

 

 そんなキム・ジヨンの苦難は、生まれる前から始まっていた。姉に続き「女」だということ、たったそれだけの理由で、彼女は全く歓迎されずに生まれてきた。

 最初に姉が生まれた時でさえ、母は義母に泣いて謝ったのだ。「男の子を生めなくて申し訳ありません」と。そんな母のお腹から、彼女はいったいどんな顔で生まれてくればよかったのだろう。

 そして、妹(三女)として生まれるはずだった小さな命は生まれてくることを許されず、やっと生まれてきた長男はあらゆる点で姉たちよりも優遇された。姉たちは弟よりも明に暗に「下」だった。言うまでもない、女だからだ。

 

 こんな家なんかと必死に勉強し、家計の余裕を推し量りながらなんとか進学した大学で恋人ができたところで、別れれば男どもに「噛んで捨てたガム」呼ばわり。

 加えて、露骨な男子優遇、女性排除の力学が働く就活を死ぬ気で突破した先には、やはり男子優遇の給与体系が待っていて、会社で男性社員による排泄場面の盗撮を追及すれば、「盗撮くらいで男性社員の人生を台無しにするのか」と怒られる。

 比喩でもなんでもなく、女に生まれることは、出口のない迷路に放り込まれることなのだ。キム・ジヨンは、男どもや社会への違和感を抱えながらも、場面場面を穏便にやり過ごすために、怒りの言葉を飲み込んで耐える。その言葉をすべて抱え込んで、彼女は最後の袋小路に向かっていく。

 

 言うまでもなく、これはキム・ジヨンが個人的に運が悪かったとか、そういう話ではない。構造的に、女性差別を再生産する息子を育て、女性差別に耐える娘を育て、家父長制共同体そのものである男優先の家族を構成してしまうすべての「母親たち」の物語でもあるからだ。

 事実、キム・ジヨンの母親の存在は、物語に時間的な厚みをもたらしている。5人兄弟の中で一番勉強ができたのに、中学校にも進めず、男きょうだいの学費のためにただ必死に働いた母。お腹に宿った三人目の子どもが女の子だと夫にすら打ち明けられず、人知れず始末した母。その後も子どもたちのために働きっぱなしの母。

 そんな母親が、ふと「私も先生になりたかったんだよねえ」とこぼす場面がある。まだ小学生だったキム・ジヨンはその言葉の重さが分からずに、「お母さんというものはただもうお母さんなだけだと思っていた」と驚く。母親の中に「人間」がいることに戸惑い、とりあえず笑うことしかできない。

 

 人生のある時から、誰かにとっての「お母さん」としか認識されずに生き、死んでいった女たち。その一人であり、全員でもあるキム・ジヨンの母。

 自分が耐えてきた苦労から逸脱して行こうとする娘たちを反射的に抑圧してしまう一方で、それを瞬時に訂正し、娘たちに道を示そうと葛藤する、その迷いと力強さにどうしようもなく泣いてしまった。

 そしてある日、弟の一人部屋確保よりも優先してキム・ジヨンと姉に姉妹専用の部屋が与えられ、壁に世界地図を貼り付けた母はこう言った。「行けなくても、知っておきなさいね。世界はこんなに広いんだってこと」。

 

 そんな母親に力をもらいながら、なんとか自分なりの人生を切り開き、奇跡的にまともな男と結婚したと思いきや、キム・ジヨンが結局は世界から閉ざされてしまうのは、まさに「母親」になることによってだった。何という皮肉だろうか。

 子どもができ、仕事を休むか辞めるかを算段している過程で、「共働きの核家族で子どもを育てることの現実」が二人を襲うのだ。誰も教えてくれなかったけど、全然、簡単じゃない。その時、夫が言うのは例のあれだ。子育てとか、君の再就職とか、「僕も手伝うよ」だ。

 

 日本と、問題の根幹は同じである。「仕事だけやっていればいい、実家でお母さんがご飯を作って待ってくれている独身男性」を基準に働き方が考えられ、サービス残業を含めた人件費として計算されていることが諸悪の根源である。

 短期的にはこれで企業は利益を維持し、生き残ることができるかもしれない。だが、少子化と人口減少はその恩恵以上のダメージを企業に、そして社会に与えることはすでに現実の出来事として明らかだ。

 韓国の移民政策がどうなっているのか、力及ばず調べられていないが、仮に日本と同じく消極的なのであれば、ここを脱出し、産業を保ちつつも家族を壊さずに舵取りしていくためには、ひとまずは男も「女」になるしかないのである。

 それは、加藤陽子が「100分 de フェミニズム」で紹介していた言葉を借りるなら、これまでは女性がその多くを対応してきた「不覚の違算」に男も生身でさらされながら、それまでの生き方から半分降りることを意味する。上野千鶴子が『女ぎらい』で書いたように、それは男が「自己嫌悪」と闘うことでもある。

 

 あるいはもっと素朴に、日常のシーンとして言えば、それは松田道雄が書いたように、育休などを通じて「半分降りる」ことを決めた男が、「周囲の軽蔑に耐えなければならない」ことでもある。

 そして、その周囲とは要するに「層としての男=家父長たち」であり、それまでの働き方に関する自分自身との和解は、「自分の中の家父長との和解」を意味する。

 それは、個人のレベルでは、自己を啓発することで十分に達成可能な目標に思える。ここで難しいのは、上野千鶴子の『家父長制と資本制』でも示唆されていたように、個人としての男が層としての男に「育休の許しを請う」構図をただ反復するだけでは、「母親が二人になった」に過ぎない、という問題だ。

 いったいどうすればいいのだろう。夫婦の団結なくして乗り越えられないが、いつまでも夫婦の自力だけでやっていくのでは、家族が壊れてしまうかもしれない。「その次」が、きっと必要だ。そしてそれは、「政治」だけが実現し得ることを、韓国の女性たちはよく知っているのだと思う。

 

 「売れてはいるが、ただそれだけの作品」があまりに多く、普段、あまりベストセラーの類は手に取らないのだが、これは「売れているだけあって、すごい作品」だと思った。音楽であれ、映画であれ、そうでない場合の方がはるかに多いと思うが、これは傑作である。

 もっとも、この衝撃は私が男だから受けたものでもあるのだろう。女性にとってはうんざりするほど見飽きた、経験し尽くした、ただの日常的な「あるある」に過ぎないのだろうから。それに男の私が啓発され、乗っかる素振りを見せること自体、とてもグロテスクなことに違いないが、しかし本書はそういう力を持っていると思う。

 

 たくさん売れ、たくさん読まれた。きっと、本書に救われるべき人たちの手には届いたのだろう。では、本書に殴られるべき人たちは? Twitterに、「知って欲しい人には届かないだろう」という感想があり、残念ながらきっとそのとおりだと思った。

 だからこそ、本書を読んだ「男たち」がすべきことや、変えるべきものは、きっと身近にたくさんある。「問題の一部じゃなくて、答えの一部でありたい」と言ったのはAwichだが、この言葉の重さがいまようやく理解できた気がする。そうありたいし、そうあるべきなのだ。この社会全体が、女性差別の「現場」なのだから。

 

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著者:チョ・ナムジュ
訳者:斎藤真理子
出版社:筑摩書房
初版刊行日:2018年12月10日