The Bookend

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『フォークナー短編集』書評|あたしは黒人にすぎないんだわ。そんなこと、あたしの罪じゃないけど

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 なすすべもなく、大きな力に押し流されていく南部の人々。もたらされる復讐。あるいは破滅。誰にもそれを止めることはできない。まるで最初からそうなることが決まっていたみたいに。南北の分断により傷んだアメリカ、人種主義、奴隷制女性嫌悪、愛と憎しみーーそういった大きな題材に惑わされがちだが、それらはすべてフォークナー的な決定論を演出するための要素に過ぎない。

 人々は、「あの夕陽」で夫からの復讐に怯える黒人の洗濯女・ナンシーのように、あるいは「赤い葉」でインディアンの一族から逃亡する黒人奴隷のように、「その時」の到来をただ延ばしていくことしかできない。そうした虚しい抵抗は、せいぜい「その時」の悲劇性を強調するだけに終わるだろう。それすらを自覚した、破滅者たちの冷めた俯瞰は刃物のようだ。読み手にできることなんて何もない。

 

「ああ、すっかり疲れちゃった」と彼女はいった。「あたしは黒人にすぎないんだわ。そんなこと、あたしの罪じゃないけど」

 

 ウィリアム・フォークナーノーベル文学賞受賞者。主要作はほぼすべて上下巻に分かれた長編で、岩波ともなると文庫でもそこまで安くない。その迫力の前にひるんでいる人にまず勧めたいのが、新潮文庫のこの短編集である。収録作は訳者・龍口直太朗の選りすぐりで、なるほど、読むとウンザリするようなしんどい話が8つも並んでいる。

 年代を追うごとに読みごたえも大きく、特に「納屋は燃える」は、イ・チャンドン監督の映画『バーニング 劇場版』の原作としても話題になった。そのクライマックスはこうだ。

 

すると、少年は動きだし、走っていた。家の外へ出て、厩へむかった。これは昔ながらの習慣だった。彼自身ではどうすることもできない、いやおうなしに彼のなかに遺伝した、古い血であった。

 

 この血が自分に流れていることは、自分の罪ではない。この自分としてこの世に生まれ落ちたのは、自分の罪ではない。なのに、この血が流れている以上、自分は自分ではいられないのだ。こうした決定論的な絶望は、本書のどの作品にも太く流れている。

 フォークナーは、そこに何の出口も準備しない。思えば映画『バーニング』の結末は、村上春樹の「納屋を焼く」よりも、『アブサロム,アブサロム!』のスピンオフともいえる「孫むすめ」のそれに近かった。出口も、逆転もない。終わらせるにはただ「終わらせる」しかない、そんな叫びのようだった。

 

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著者:ウィリアム・フォークナー
出版社:新潮社[新潮文庫
初版刊行日:1955年12月15日