1000字書評ブログ “Trash and No Star”

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あるいはジャジーがせいぜいな夜の独り言|『文學界』2020年11月号感想

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 洋楽ロックやらヒップホップのアルバムなら100枚か200枚は聴いたはずだが、ジャズとなるとそうはいかない。ノラ・ジョーンズまで含めていいならようやく10枚とか20枚とか、せいぜいそんなところだろう。愛聴盤を訊かれれば、無防備なまま『ゲッツ/ジルベルト』を挙げるほかない。

 そんな門外漢が、これまでに接したものの中でもっともジャズ「的」だったもの。それはジョン・カサヴェテスの監督処女作、『アメリカの影』だったと思う。フォークナー的な題材をニューヨークに連れ出してミンガスで吹き飛ばしたような、粗削りな映画だった。ああ、自分でもジャズを「観る」ことならできるんだなと思いながら、しかし「逸脱」とか「即興」とか、自分の中に刷り込まれたジャズのイメージの貧しさに嫌気がさしもした。

 

 タイトルの「文学」という言葉に期待したものは、ジャズと関連した小説の紹介、みたいなものではないから、筆者にとっての収穫は、村上春樹の巻頭インタビューと岸政彦の論考「方法の共同体」の間にあった。後者の中で、ジャズの「社会的用法」、ないし「政治的な語り」とされているものである。

 ジャズは社会に還元できない。しかし、音楽だけにも還元できない。村上春樹の語りを引くと、要するにこういうことである。

 

だから僕はジャズに関して言えば、音楽は音楽として聴くしかないと思っているんです。でも、それだけではやっぱり落ち着かないとなった時、それを埋めてくれるのは一種のエピソードしかない。

 

 これらの言葉は無論、かなり慎重に使われている。が、筆者のジャズとの埋まらなかった距離というのは、ジャズの中のこうした「語り」をまともに聴こうとしていなかったことの結果なのかもな、と思った。いかに邪道であろうと、「抵抗」でも「破滅」でも「逸脱」でもなんでもいいから、とにかく飛び乗ってしまえばよかったのだ。と、今となっては思う。

 あるいは別の意味で、相変わらず遠くに届かない言葉で「俺のジャズ」を語っている玄人たちをぶっちぎって、圧倒的に仕事をしているのは菊地成孔だろう。山下洋輔との対談で、この号でもっとも遠くに届く言葉を使いなぜか「ジャズ文学としての村上春樹」を真面目に語っている。どうも短篇集『一人称単数』は読んだ方がよさそうだ。(ちなみに、「俺とジャズ」的な切り口では、中原昌也による筆を投げ捨てるような「ジャズクラブの裏の倉庫」が一番面白い)