1000字書評ブログ “Trash and No Star”

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村上春樹『アンダーグラウンド』書評|でもね親としちゃ触ってみて、冷たくなっていて、それでやっと「駄目だわ」って思えるんです。

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 存在だけは、もちろん知っていた。村上春樹が手がけた、地下鉄サリン事件関係のノンフィクション。なかなか読む気にならなかったのは、オウム真理教というものが、自分にとって、あえて村上春樹を通じて読んでみたいと思うような題材ではなかったからだ。

 いや、もっと正直に言おう。私はこの教団や事件について、これまで真剣に考えたことがない。著者がオウム真理教の信者を街頭で初めて見た時に抱いたという、「自分とは関係のないもの」という認識を、そっくりそのまま、私はこの作品に向けていたのだと思う。

 

 いざ読んでみると、まずはその形式に驚かされる。本書は事件の被害者、遺族ら約60人のインタビューを「聞き書き」に近い形でまとめた一冊なのである。聞き取り時の印象が寸評のようにまとめられてはいるのだが、あとは基本、語りっぱなしである。まさかここまで振り切れた内容だとは思わなかった。

 もっとも、テープ起こしは専門業者が担当し、話の流れは著者が一部組み替えているというから、語り口が職業的に均され、語りのリズムも編集されてしまっているな、という印象は否めない。それでも没入感は強烈で、事件に関する予備知識もほとんどないまま、一気に読み終えてしまった。

 何か、直感のようなものなのだろうか。小説家である著者が、この事件について考えようという時に選択した手法が、「人の話を聞くこと」だったことが興味深い。読む方が何かを問われ、試されているようだ。

 

 「固定された図式を外したい」という著者の問題意識により、「その日」の出来事の前に、語り手たちの日常や、ちょっとした生育歴がまず語られる。そこには、共通する大きな語りがあるようにも思う。地方から上京し、都会で暮らし、結婚を期に「安かったから」という理由で郊外に家を買い、満員電車で通勤する、そういう物語だ。

 しかし、そこに流れる各人の傾向、思考の癖のようなものが見えてくると、実名、仮名に関わらず、ある「固有性」が立ち上がるのを感じることができる。そのとき語り手たちは、「会社員A」ではなく、あるパターンで日常をやりくりしていた、「他の誰かではない誰か」として、そこにいる。

 一方、読み進むにつれ、そこに覆い被さってくるのは、どんな意味化も寄せ付けない冷然とした「偶然性」だ。いつもよりたまたま早く家を出た人、逆に遅く出た人。ちょっとした気まぐれで、いつもと違う車両に乗り込んだ人。それぞれがそれぞれの偶然で、「その列車」に乗り込んだ。それが、その人でなければならなかった理由は一つもない。

 本書が描くのは、まずもってこの、「固有性」と「偶然性」のコントラストである。さらに言えば、固有性を徹底的に剥奪され、いちど偶然性に侵された被害者が、今度は固有の後遺症を抱えた固有の存在となって(時には、遺体となって)再び日常に戻っていく過程は、とてもじゃないが平然とは読んでいられない。あまりの落差に眩暈がする。

 

 そして、「その日」の出来事に関する語りは、読み手を動揺させずにはおかない。個人的なことを言えば、世代的な限界で当時の記憶はほとんどないが、「ラッシュアワーの地下鉄で毒ガスが撒かれたのなら、さぞかし大パニックに陥ったのだろう」というイメージを持っていた。だが、語りから浮かび上がるのは、「見過ごされた違和感」のようなものである。

 事態の全貌が誰にも分らず、皮肉なもので、そのためにパニックみたいなことはすぐには起こらなかった。皆、それまで蓄積してきた、それぞれの職務的な合理性や、個人的な合理化の回路などに基づき、その違和感に対して何らかの解釈を行い、その先の行為を選択した。結果として、多くの人が違和感を押し殺して這うように出勤し、列車はサリンを載せたまま走り続けた。

 

 時代の後知恵で、危機管理上の批判を加えることは容易い。しかし、あえて聞き書きという形式を採用した本書が問いかけるのは、これだけの被害を受けておきながら、「怒りを感じない」とか、「自分のことを純粋な被害者だとは思えない」いった、「固定された図式」から外れた語りをどう受け止めたらいいのか、ということではないか。

 帯には「事件の真相に迫る」とあるが、違うと思う。確かに、被害者らの語りは「証言」と呼ばれているが、本書が描くのは、危機管理上の落ち度がどこにあったか、とかではなく、そもそも「混雑した朝の地下鉄の車内で何の前触れもなしにサリンガスを浴びせれれるというのが現実的にどういうことなのか」ということなのだから。

 

 言うまでもなく、被害者らの語りは、メディアが描きたい「決定版の物語」のための素材ではない。バラバラなものは、あくまでバラバラなのだ。それぞれの経験があり、それぞれの意味化がある。著者が試みたのは、異なる経験を一つに統合することではないと思う。その意味で、私はこれを抵抗の書として読んだ。

 

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著者:村上春樹
出版社:講談社講談社文庫〕
初版刊行日:1999年2月15日

 

※上限文字数を大幅に超過していることを申し添えます。