The Bookend

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伊波園子『ひめゆりの沖縄戦』書評|先生は自決する。だれに対する責任だろう

 勝手に触れてはいけない歴史というものがある。語られるのを、じっと待たなければならない歴史というものがある。もしも語られたのなら、私たちはそれを黙って聞き、そのまま受け止めることしかできないだろう。

 沖縄戦に関する語りもきっとそうだ。15歳そこらで玉砕必至の地上戦に動員され、時に明け透けに、時には暗に死を強要されながら銃弾の雨の中を這いずり回り、そこから生還することなど想像を絶する。

 その意味で、本書に付け加えられることなど何もない。ただ、6月のこの時期に、沖縄戦について一人でも多くの人が思いを巡らせることの意味はあるだろうし、自分にできるのは、せめてそのうちの一人であろうとすることである。

 私たちは、沖縄戦を知らない。そしてそのこと自体が、沖縄の置かれた状況を表している。そのことを何度でも思い出す日にしたい。

 

 姫百合学徒隊。沖縄戦に従軍看護隊として動員された、師範学校女子部や県立第一高等女学校の生徒たちである。「師範学校の生徒は、将来人の師となる者である。敵の捕虜になるなど考えられない」と言われて戦場に送りこまれ、半数以上は帰ってこなかった。著者はその生存者の一人である。

 本書で語られるのは、ある少女が、自分の意志とは無関係に戦争に巻き込まれ、死と隣り合わせの戦場を生き、次第に逃げ場と選択肢を奪われていくまでの過程である。言うまでもなく、最後には死が待っている。そんな彼女たちを支えていたのは「学徒の誇り」であった。

 「お国のために役に立っているという満足感」「傷兵の看護という尊い使命感」「いまはただ軍に協力していこうという一念」といった言葉が頻繁に登場するが、これらは、「ひめゆり学徒隊」が沖縄戦の象徴的存在として背負っているイメージどおりであるとも言える。

 

 もっとも著者は、その聡明さ故に戦争の大義や教師の言うことを「いったん保留」することができていたように思う。

 だからこそ、追い詰められた沖縄南部で一時は死を覚悟するものの、自決を決意した教師の発した言葉を反芻しながら、少女は問うのだ。「先生は自決する。だれに対する責任だろう」。

 この疑問が少女の決意を鈍らせ、結果的には生き延びさせた。少なくも私にはそう受け取れた。であれば、この疑問は何度でも反芻されるべきものではないか。沖縄戦でもたらされた被害に対し、あるいは今置かれた状況に対し、沖縄に何か責任があるのだろうか。

 

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著者:伊波園子
コラム:村上有慶
出版社:岩波書店[岩波ジュニア新書]
初版刊行日:1992年6月19日