The Bookend

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

大江健三郎『沖縄ノート』書評|この「完全な葛藤」の先には何があるのか

 確かにこれは、本土の人間が沖縄の人々に示す態度として、一つの「倫理的正解」ではあるのだろう。沖縄へのコミットメントを深めれば深めるほど、むしろ強烈に感じられるようになっていく沖縄からの「拒絶」の感覚。それを内面化し、絶えず自らを責め、問い、あるいは嘲笑しながら生きることで、著者は沖縄について語ることを自らに許している。

 この感覚は分かるつもりだ、などと書くのはあまりに僭越だろう。だが、本書で多用される「恥」という言葉に私は私なりに心当たりがあるし、このブログに書き連ねてきた文章の中にそれは滲み出ているかも知れない。だからこそ、同時にこうも思う。私たち本土の人間は、本書のように「完全な葛藤」に沈み、「恥の刻印」とともに生きることを求められているのだろうか?

 

 まるで大田昌秀による「醜い日本人」という批難を受けて書かれているようにも思える本書は、醜い日本人の一人として、「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」という永遠の堂々巡りについての本である。

 自分の沖縄に対する態度を取りだす。するとそれと同期して、最もシビアで、挑発的で、露悪的なまでの自己批判の声が立ち上がる。著者はそこでがんじがらめになるが、自ら問い、自ら答え、また自ら問い直す中で、のたうち回るようにして少しずつ進んでいく。その執念は圧倒的である。

 が、一見厳しく抑制され、自己破壊的なようでいて、実はそれなりに湿っぽく、ドラマティックですらある文体には、ナルシシズムを感じないではない。「ノート」と銘打ち書きかけのように終わっているが、この「完全な葛藤」は、その完全さゆえにそれ自体でむしろ「完結」してしまっていると思う。

 

 池澤夏樹のように、これを「贖罪のポーズ」と呼ぶほどの度胸や資格を私は持ち合わせていない。だが、「完全な葛藤」という言葉に批判のトーンを読み取られてもやむを得ないと思う。無論、それが政治的に利用される可能性を含んだ表現であることには警戒が必要だが。

 いずれにせよ、仮に私が「理解ある本土の人」として沖縄の人々に許してもらったところで、それはいかなる問題の解決にも寄与しないだろう。そう思う時、岸政彦先生の件のインタビューにあった「ひとりの日本人として沖縄にどう向き合うか、いくら考えても何も変わらない」という言葉、その重みを改めて反芻するのである。

 

******

著者:大江健三郎
出版社:岩波書店岩波新書
初版刊行日:1970年9月21日