初版は1972年。復帰の年だ。しかし、浮ついた空気はまったくない。むしろ、そのような時だからこそ、本土の人間にはとうてい理解しようのない「沖縄のこころ」を、沖縄戦という原点から徹底的に問うのだという気迫がみなぎっている。
同時に、本書を支配するのは途方もない「虚しさ」だ。沖縄戦の終盤、とある海軍少将によって打たれた「沖縄の人々はすべてをなげうって、軍に協力してくれた。後世、特別のご高配を賜るよう」という電報は、まるで叶えられなかった。
「醜い日本人」に向けた、尽きることのない怒りと、それを丸ごと覆ってしまうほどの虚しさが代わる代わる押し寄せる中で、読者はただ戦慄し、ただ茫然とし、あるいは底の見えない無力感の中でただうなだれるほかない。
内容に簡単に触れておく。本書はまず第一に、大田少年の従軍体験記である。沖縄戦当時、沖縄師範学校本科2年生だった著者は、鉄血勤皇隊として動員され、沖縄守備軍情報部直属の「千早隊」として、最後まで部隊と行動を共にした。
第二に、歴史的な検証がそれと並走している。軍の作戦会議の過程なども緻密に記録されており、体験ベースで「当時こうだった」ことと、上から見た沖縄戦が「実はこうだった」という種明かしが同時に進むのだ。
「捨て石」として見放された沖縄。著者が丹念に記録を辿って明らかにするのは、4月中旬にはすでに見切りが付けられていた、ということである。だとすれば、そこからの2カ月はいったい何だったのだろうか。
著者が問うているのは、まさにこの一点であり、裏返せば、なぜ、それでも戦争は続けられたのか、ということである。それはここでは繰り返さない。それを自ら知ろうとする「日本の心」を、著者は求めているからである。
それにしても、よりによって1972年という年に、こうした本が改めて世に問わなければならなかった、そうした状況そのものがすでに一つの「裏切り」だったと言わざるを得ない。
そして、この感覚すら、説明なしに共有することは難しいのだろう。著者はあとがきに、戦後27年の時点ですでにメディアで平然と行われるようになった「沖縄差別」の例を書き留めている。ここには、間違いなく歴史の忘却以上のものがある。
だからだろう、本書に書き込まれた言葉は決して、本土の人間の同情や、表面的な理解など求めてはいない。むしろ、それらを激しく拒絶しているようにすら思えるのだ。
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