The Bookend

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岸政彦編『東京の生活史』書評|誰にでも作れたかもしれないが、誰も作ろうとしなかった本

 ほとんど奇跡のように存在し、なかば事故のように分厚いこの書物を先ほど読み終えた。読み終えた、という言い方が正しいかどうかさえ、正直よく分からない。ある意味では「聞き終えた」とも言えるし、「語り終えた」とさえ言えるかもしれない。

 それどころか、150人の聞き手を公募し、約480人もの応募のなかから抽選などで絞り込みを行い、それぞれの聞き手が東京に住んでいる人、住んだことのある人などから生活史の聞き取りを行い、50000字や60000字に及ぶそれぞれの語りを文字に起こし、10000字以内に編集をかけ、それを一冊の本にまとめ上げたという途方もない舞台裏を「あとがき」を通して知ってしまうと、いや、自分はこの本を最後まで読み終えることで、本当の意味でこの本を「作り終えた」んじゃないかという気さえしてくるのだ。

 

 そんな途方もない本にどのような評が可能なのかさっぱり分からないままこの文章をとりあえずは書き始めているが、本文1211ページの2段組みを読み終えた心地よい疲労感と物理的な達成感を味わいながら浮かんでくるのは、やはり、この本がこういった形で存在していること自体への驚きである。

 よくも、このような本が企画され、こうして存在しているなと思う。皮肉でもなんでもなく、率直にそう思う。ただ断片的に語られた誰かの人生がひたすら並んでいる「だけ」の本。作れと言われれば誰にでも作れたかもしれないが、誰も作ろうとしなかった本。当たり前だ。このような本が売れるとは普通、誰も考えない。だが、『東京の生活史』はここに存在している。

 

 鈍器のようだとネタにされているうちに誰も真剣に考えなくなってしまったが、このように「普通の人」のライフ・ヒストリーを150人分並べた「だけ」の本が、売れる/売れない以前に、ただ存在しているというだけでそれはすごいことなのではないだろうか。

 2014年に5人の人間の生活史を並べた「だけ」の『街の人生』が出たとき、普通の人文書であれば編集の初期段階で直されてしまいそうな、ケバがついたままの、少したどたどしい、本当にいまそこで人が喋っているような生々しい語りのリズムに多くの読者は戸惑ったことだろう。

 前後に解説や考察が続くわけでもない。ひとつの語りがふと始まり、やがて終わる。それがただ繰り返される。少なくとも、自分は当時こう思った。「この本を読むと、いったい何を読んだことになるのか?」。そして、著者はどうもその意味こそを伝えようとしているらしいことも伝わってきた。

 いま思えば、「外国籍のゲイ、ニューハーフ、摂食障害、シングルマザーの風俗嬢、ホームレスたち」を強調した同書の帯は、あの本を商業的に流通させるためのギリギリの措置だったのだろう。語り手の属性を考慮すれば、「マイノリティ」とされる人たちの生活史として、ある程度目的をもって読むこともできたはずだから。

 

 だが、この『東京の生活史』に至っては、もはや何のタグもラベルも付いていない。「東京」、ただそれだけである。凡例の手短な説明を除き、語りを遮るものは何もない。ただ語りだけがあり、語りしかない。この「沖縄版」や「大阪版」が遠からず出版になるという状況に早くも慣れてしまいそうになるが、普通に考えればリスキーな実験作の類だろうし、この本がこうした構成で出版されている事実は、きっと当たり前ではない。

 それでも、「この本は、さまざまな人びとへのインタビューを集めたものです」という丁寧な前書きと、語り手の要約的紹介という「よけいなもの」で始まらざるを得なかった2014年の『街の人生』から7年、本書はさまざまな人びとへのインタビューを150個、あいさつもなく並べ、「この本に付け足すことは何もない」というあとがきで終わっている。少なくとも、それができるくらいの状況は作ったのだ。

 

 前置きが長くなった。そろそろ、この本をどう読むか、というか、この本を読んで自分の中に何が残ったか、ということについて考えてみたい。

 

 発売間もない頃、本書を概括する書評が何本か出て、NHKでは特別番組が作られて、編者もいろいろな取材に対して本書の「あとがき」を要約するような形で答えていたから、本書の性格や目指すところについては、よく整理された言葉で事前になんとなくは理解していたつもりだった。

 むしろ、「この本を読むと、いったい何を読んだことになるのか?」という『街の人生』以来の問いを絶えず反芻しながら、少しでも批評的に、少しでも分析的に読んでやろうと思っていた。だが、押し寄せる「人生」という洪水の前で、それは何の意味もなかったことをまず白状しておきたい。

 タグやラベル的な要約情報がない以上、読み手は語りのすべてをいったんは受け止めることになるが、生身の人生10000字分の重みは想像以上で、ただ圧倒される。読者にできるのはせいぜい溺れないようにしおり紐をぎゅっと掴んでいることくらいだ。普段、いかに「読もうと思っているもの」を狙って読みに行っているかを思い知らされた。

 

 もちろん、厖大な語りが10000字に絞られる段階で、聞き手のフィルターを一度介していることは間違いないし、それぞれのパートには語りの一部が何らかの意図をもってタイトルとして引用されているのだが、それらの作業が語りをスポイルしてしまうことはない。いや、そのくらいのことではスポイルできない、と言った方がいいかもしれないが。

 例えば、NHKの特番でも引用されていた「車を運転しながら花火がバンバンあがってて。ファンファーレみたい。今から死ぬぞ!じゃないけど」の人なんかは、実際に読むと、確かにこの引用部分は家族にしか共有できない必然のユーモアであり、とりあえず一緒に笑うしかないのだが、しかし通しで読み終わると、もう何も言えない。とにかく、人生だな、と思う。

 

 この「花火」のようなものが、本書にはいくつか登場する。誤解を恐れずに言えば、私がこの本で惹かれたのは、語りの集まりから立ち上がる東京の姿ではなく、むしろその本質の構築になんら貢献しないように思われる、いわば語りの残余の方である。別に自分を主人公として設定されたわけではないこの世界は、だからこそ時に必然性を欠き、喜劇的な振る舞いを見せる。

 後半の語り手で、「夜中に汽車が走っていたこと」を突然思い出す人がいた。その汽車の社会的な背景を追えば、もしかしたらこの語りの残余からも何か歴史的な意義を引き出すことができるのかもしれない。だが、語り手自身でさえ、その汽車がどこに向かって、何を運んでいたかは分からないのだ。どうして今、そのことを急に思い出したのかさえ定かではない。

 それでも、この人はそれを今の今まで、頭のどこかでは覚えていて、自分の人生を丸ごと思い出そうとするときに、突然その音を思い出したのである。しかも、話が本来の軌道に戻った後に、その人はもう一度汽車の話に戻っている。ある人の人生が、ある時、ある音とともにあった。本人が忘れていても、確かにそういう時期があったのだ。自分で呆気に取られている様子が伝わってきて、おかしい。

 かと言って、本人の中で何か特別な、象徴的意味を持っている風でもない。少なくとも、それはまだ言語化されていない。そうである以上、私がそこに意味や物語を勝手に付け足すわけにもいかない。だが、歴史的意義とも象徴的意味とも無関係なこうした語りを、私は愛おしいと思う。

 

 人生の厖大さ。人がひとり生きるということは、簡単なことではない、ということが伝わってくる。こういう人生が誰かによって生きられ、今もどこかで続いていることを私たちは全然知らない、ということを知ることができる。私たちが気軽に「社会」などと呼んでしまうものが、どんなにまだら模様で、どんなに複雑で、どんなに「誰からも知られようとしていないか」が本当によく分かるのだ。

 もちろん、冷静に考えれば、本書は東京の成り立ちに対する社会学的な関心から来ているのだろう。だからこそ、本書はあくまで「東京の」生活史であり、「東京人の」生活史ではないのだ。東京という場所の性質を考えれば当然と言えば当然なのだが、本書は「東京の」生活史であると同時に、「地方の」生活史でもあるということに、読んでいて気付いた。

 曲がりなりにも「書評」を自称するのではれば、本来はそうした読み方を突き詰めるべきなのかもしれないが、それは誰かがやってくれるだろう。その時、その場限りの人生の語りが、たくさんの寄り道をしながら生まれてくる、そういう過程を楽しむ私のような読み方が表層的と言われればそれまでだが、しかしある街の、ある都市の歴史を記述することはどうしたら可能なのだろうか。本書はそれが自明だとは考えていない。

 だからこそ、例えば戦争があって、大震災があって、復興があって、やがて高度経済成長があって、オリンピックがあって、バブルあって弾けて、といった形での大きな歴史の記述はここにはない。それらは本書を読む上で必要になる前提であると同時に、あくまで誰かに生きられたものであって、もしかしたら人生の一部ですらないかもしれなくて、それを知っているのはそこでその時生きていた人である。

 結果として、読む前になんとなく思い描いていた「典型的東京人」のような人が一人も出てこなかったのは、今なお驚きである。だからと言って、本書の試みは何か大きなものに対して逐一「例外」を示すために行われたわけではないだろう。それを知っている人に話を聞きに行く、その結果をまずは受け止める、というシンプルな論理が最後まで貫かれているのではないかと思う。


 当たり前だが、いろいろな人生があって、いろいろな東京がある。1200ページをかけて知る、その当り前さが心地よい。

 

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編者:岸政彦
聞き手:青山薫、秋山きらら、浅海卓也、足立大樹、足立大育、雨澤、飯田沙織、飯山由貴、碇雪恵、石川ひろみ、石田賀奈子、石田瑞穂、石鍋啓介、石原喜美子、泉谷由梨子、市川安紀、いつか床子、伊藤宏子、井上由香、伊野尾宏之、今岡拓幹、上間陽子、打越正行、内田竜世、大河原さくら、大北栄人、大久保真由、大久保理子、大里瑞夏、太田典歩、大槻美和、大西未希、大八木宏武、小笠原綾、岡本尚之、岡本史浩、荻堂志野、掛川直之、笠井賢紀、柏倉功、梶原亮一、勝浦研斗、葛宮亘、加藤里織、加藤夏海、加藤雄太、金井塚悠生、兼子春菜、加福文、上久保直紀、唐澤和、川野英二、川端豊子、川邉絢一郎、河村愛、神原貴大、菊池謙太郎、岸政彦、金直子、木村映里、具志堅大樹、久世英之、熊本博之、倉数茂、小池エリナ、小泉真由子、小枝冬実、小城萌笑、小林真紀子、小林玲、小松順子、小松原花子、米谷瑞恵、近藤夏紀、齋藤あおい、齋藤直子、酒井摂、榊栞理、坂本絵美子、坂本光代、坂本唯、櫻井勇輔、里芋はじめ、佐藤いぬこ、實川真規、篠田里香、芝夏子、清水唯一朗、下地ローレンス吉孝、末松史、菅谷雪乃、鈴木恵理鈴木紗耶香、スズキナオ、鈴木裕美、関駿平、髙橋かおり、髙見之陽、武田千愛、武田梨華、竹谷美佐子、太齋慧、田中創、田中雅大、辻拓也、続木順平、渡真利彩、冨手公嘉、中井澪、永井藍子、中植きさら、長倉崇宣、中島みゆき、なかのゆか、仲藤里美、中山早織、成瀬郁、南里百花、新山大河、西岡日花李、外立勝也、長谷川実、はっとりたくま、林雄司、東万里江、藤代将人、藤原理子、古屋敬洋、星野光一郎、細貝由衣、堀部篤、松岡理絵、三浦一馬、三品拓人、水野萌、宮田桃子、宮本由貴子、村上ももこ、村松賢、村本洋介、毛利マナ、森山晴香、薮下佳代、山口聖二、山崎哲、山田哲也、山本ぽてと、湯田美明、ルイス、渡邊直紀
出版社:筑摩書房
初版刊行日:2021年9月22日