Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

岸政彦『はじめての沖縄』書評|海を受け取ってしまったあとに(10)

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 沖縄を語ることについての、本である。あるいは、沖縄のことなど語れないと、思い知るための本でもある。そして、それでも沖縄を語りたくなってしまうことについての、本でもある。同時に、どう語ってもそれは沖縄を語ったことにはならないことを知るための、本でもある。

 要するに、とても「めんどくさい」本だとは、著者自身の評である。20代の半ば、初めて訪れた沖縄で「沖縄病」を患ってしまった著者の中にあふれ出す、「はじめての沖縄」への罪のない愛に蓋をして、著者自身が、これからも、何度でも、沖縄と出会い直すために書かれた本として、私は読んだ。

 

 本書は、沖縄が「分かる」本ではない。何も断定されず、何も確定しない。それは、「歴史には、それを経験した人の数だけ顔がある」ということでもあるし、『地元を生きる』の合評会で出た言葉を使うなら、書き手や読み手の「ポジショナリティ」によって沖縄の表情はあまりにも違う、ということでもある。

 そこには、「境界線」が存在している。それは地理的な、歴史的な、政治的な、境界線である。あるいは壁。その壁は、普段、「お前は何者か」と問われることから免除されている私たち本土の人間に向かって、「お前は何者か」と、激しく詰め寄るだろう。それは都合よく隠したりできない、確固たる壁だ。

 

 池澤夏樹が、大江健三郎を批判して用いた「贖罪のポーズ」という言葉。そういう物差しで測るのなら、本書は、語りようのない沖縄をそれでも語ってみることの困難が、贖罪によって免除されるとは思っていない。

 沖縄の人々は、長い間、本土とは異なる秩序の中を生きてきた。それを強いてきたのは、私たち本土の人間である。その構図から逃げることはできない。その上で、確固たる境界線の前で立ち尽くすこと。道に迷ったとき、本書はそこへ帰ってくる。

 

 ディテールにこそ社会が宿っている、と思わされるようなダイナミズムは健在だ。しかし、著者自身、誰かの人生の物語を、歴史や構造の物語と架橋させる必要を感じている点は、見落としてはならない変化ではないか。 

 いつか沖縄を、固有の歴史と、固有の構造を抱えた場所として描きつつ、それでも人々の人生がバラバラであることを描きながら、同時に、そのバラバラな人生がどれも、沖縄という固有なものの固有な断片であることを描くこと。

 そこに向かう本書は、次に来るであろう何かのための、長い長い助走に違いない。

  

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著者:岸政彦
出版社:新曜社
初版刊行日:2018年5月5日