Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

唾奇『道 -TAO-』音楽評|ラッパーと地元(沖縄篇①)

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 夕陽を全身に浴びたようなメロウ・ギター。ダーティなのに内省的なリリック。淡々と進行するビートに身を任せ、タイトル・トラックの「道 -TAO-」を聴いていると、目の前の日々を、人生を、いろんなものに力を借りながらどうにかやり過ごしている若者たちが見える。

 人生はクソで、俺もお前もいつかは死ぬ、いつここを抜け出せるかなんて誰にも分からない、だから俺たちはハイになる、、、という感覚。この「道 -TAO-」という曲は、ナズの名曲「LIFE'S A BITCH」の現代沖縄における完璧な翻訳だ。リアルも地獄も全部ある。完全にぶっ飛ばされた。

 

 唾奇。沖縄県那覇市出身。本作が実質的なファースト・アルバムである。家庭環境などの過酷なバックグラウンドは、本人のインタビュー動画で詳しく語られている。リリックの質感を理解する上で重要な要素も多いが、要約的にそれらを列挙することはやめよう。それはきっと暴力だから。

 唾奇に限らず、「リアル」なラップを聴くとき、「過酷な環境だからこそ、ここまでリアルなラップが生まれてきた」みたいなことをつい言いたくなる。だがこうした文化主義的な怠慢は、むしろ背景にある構造的な問題を温存してしまうことにはならないだろうか。そこを履き違えないようにしたい。

 ただ、打越正行著『ヤンキーと地元』に描かれた世界のすぐ近くに、あるいは上間陽子著『裸足で逃げる』に描かれた世界のすぐ裏側に、まだ語られていない世界があって、そこに生きる若者たちに相応しいサウンドトラックがあるとしたら、それはきっとこんな音楽だと思う。

 

 象徴的なところでは、6曲目の「Thanks」も必聴だ。えぐるような自己嫌悪の中、辛うじて人生が肯定される瞬間、一人の青年の手に、暴力の代わりにペンとマイクが握られる。残りの命の使い道がそこで決まる。

 もちろん、それで過去の暴力が清算されるわけじゃない。それでも、繰り返し繰り返し、「道 -TAO-」を聴く。かつては絶望に過ぎなかったカーテンの隙間に覗く朝の光は、進んでいくべき道を照らしている、、、ようにも思えるのは、気のせいだろうか。

 

掌に収まらない物ばっか増える今日も yeah, yeah

 

 リリックそのものも良いが、最後の「yeah, yeah」でたまらなく泣いてしまう。ここにすべての感情が詰まっている。敗者であり、王者だ。The World Is Yours。