Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

寺尾紗穂『北へ向かう』音楽評|出会ってしまうことと、別れてしまうこと

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 私は寺尾紗穂の理想的なリスナーではないなと、今さらながらに思う。もちろん、音楽以外の活動でも忙しくしている人で、何冊か本を出しているのは知っていたし、いくつかの楽曲が実際の「支援」に近い場所から作られていることも知っていた。つもりだった。なのに、それらを全体で受け止めてみよう、という気持ちにはなれずにいた。

 だから、全国のわらべ歌を集めた『わたしの好きなわらべうた』 や、南洋通信への応答『南洋と私』といった取組みが、彼女の中でどのような意味を持つのか、発売当時の私には理解ができなかった。理解できないものを、少し不快に感じて遠ざける。「音楽だけに専念すればいいのに」なんて思いながら。そんなリスナーを1人でも持たせてしまったことを、とても申し訳なく思う。 

 以前、『南洋と私』の評で「ここにどのような価値や、彼女の音楽活動との整合性を見出せるかは、もっぱら読者の感度にかかっている」と書いたのは、かつての自分への皮肉である。

 

 とは言ったものの、石牟礼道子を1曲目に引いた最新アルバム『北へ向かう』は、キセルの辻村兄弟を演奏とアレンジに迎えた標題曲「北へ向かう」で私を少し戸惑わせる。サビに向かってゆっくりと盛り上がっていく編曲も、「僕らは出会いそしてまた別れる」という歌詞も、彼女らしからぬ紋切り型に感じられたからだ。
 『残照』の頃の厳しさは、もうここにはない。ポップ・ソングにおいて、「出会いと別れ」以上の紋切り型はない。ここまでかと、最初は思った。しかしこの「北へ向かう」を繰り返し聴きながら、彼女がこれまで何度も歌ってきた「別れ」について考えていた。彼女にとっての「出会い」とは、見て見ぬふりをできないものとの出会いを意味するのではなかったか。であれば、「別れ」とは何を意味するのだろうか。

 

 きっと彼女にとっては、消えゆくわらべ歌も、福島の原発労働者も、南洋の人々も、同じくらいに「たよりないもの」なのだ。いつしか別れの日が来るのだとしても、その出会いが「なかったことになる」よりはマシだろうか。そう考えると、例えば「選択」という曲は、男女の出会いと別れを想起させつつも、より広い、普遍的な場所へと飛び立っていくようではないか。

 個人的な関心から言えば、細野晴臣も歌った竹富島古謡「安里屋ユンタ」が入っていたのも嬉しかった。彼女が歌い続けてくれている幸福を、今さらながらに噛みしめている。