Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

仲村清司・宮台真司『これが沖縄の生きる道』書評|残り半分の責任はどこに

f:id:dgc1994:20210826231654j:plain

 「沖縄問題の半分は沖縄人の責任でもあって、それを沖縄人自身が自覚しないと、多くのことは解決できないだろうと思います」という宮台の発言に本書の意図は凝縮されている。読者の反応を試すようだが、しかしこれ自体、宮台の言う〈感情の釣り〉そのものであろうから、乗ったら負けだ。いつもの宮台節で、圧倒的上空から投げつけられる、沖縄共同体論である。

 ここでいう「沖縄問題」とは、基地跡地にショッピングモールができ、抵抗の機運が高率の補助金を得て鎮静化してしまうことなどを指している。宮台はアドラー心理学を再三援用しているが、本書の基本認識はこうだ。沖縄の人々が内地や米軍を恨んでいるとすれば、もはやただ「恨みたいから恨んでいる」のだと。そうではなく、課題を分離し、未来に向かって新しいわれわれ意識の醸成に注力せよ、と。

 

 どうすればいいのか。市民によるワークショップの積み重ねと、それを運営できるファシリテーターの育成により、内発的な議論を長期に実践していく〈熟議の民主主義〉により、基地のない沖縄の未来をデザインするしかない、というのが大まかな結論だ。その時、手掛かりになるのは、大田知事時代に提起された「基地返還アクションプログラム」と「国際都市形成構想」ではないかと共著者の二人は言う。

 こうした骨子のみを取り出せば、本土の人間として勝手に首肯することは容易い。それができないのは、本書に「対談本」としての魅力が乏しいためだけではなく、アドラー心理学が、社会の問題をも個人の「心の持ちよう」に還元してしまうように思えてしまうためだけでもなく、膨大な理論やモデルが、それこそ〈場所の全体性〉を踏まえず一般的に羅列されているように思えるためだけでもない。

 

 正直、私は本書が仕掛ける〈感情の釣り〉に負けているのである。現に、多くの気づきを得たはずの新崎盛暉目取真俊の本にだって、沖縄を内側から批判する言葉はたくさん書いてあった。それは本書の言う「沖縄問題の半分は沖縄人の責任」という見立てと、実はそれほど遠くないのかもしれない。

 しかし、その隣には「残り半分の責任」を問う厳しさが常にあった。それはやはり、どれほどベタでも反復されるべきではなかったか。それを自明化し過ぎたためか、その点にほとんど触れない本書は、宮台の知名度によってその自明さが共有されないまま多く読まれはしなかったかと、僭越ながらも危惧する。

 

******

著者:仲村清司・宮台真司
出版社:亜紀書房
初版刊行日:2014年10月8日