Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

佐藤良明監修『ラップという現象』書評|特集「ロング・ホット・サマー」9冊目

 相当、アイロニカルな本だ。白人のインテリ二人組による、ヒップホップ・シーンに関するルポというかエッセイなのだが、新しい文化の只中にいる興奮よりも、白人であることの後ろめたさが勝っている。

 本書の原著が出た1990年当時、いまだ現在進行形の「現象」でしかなかったであろうヒップホップの音楽的可能性に惹かれつつも、見え透いた虚構の前で著者(たち)は迷い、引き裂かれている。

 

 途中、素晴らしい要約と解説を何度も挟んでいる監修の佐藤良明氏が言うほど、これが「シーンの内側から発せられ」、「当時のラップがもっていた生々しさを想像」させるものかどうかはやや疑問だが、白人がヒップホップを聴くことの矛盾や葛藤のようなものが体の奥底から吐き出されているのは事実だと思う。

 それは2022年の今でも問題提起たり得るだろう。事実、ソウルクエリアンズ一派のソウルフルな音がいいとか、J・ディラやマッドリブのスモーキーな音がいいとか言っている自分は所詮、オーディオファイルの前で「動物化」した存在でしかないことを痛感させられた。

 

 しかしだからと言って、ラップが「生身の人間の生きざまの真剣な表現」で、荒廃したインナーシティを「かつてないほどストリート・レベルで捉えている」と一度は言い切る著者らが、最後までその写実性を純粋に信じているわけでもない。変装をしてまでもぐり込んだラップ・コンサートで著者らが悟ったのは、それが「ただの見せかけ」であり、「イメージを与えるための売り物」に過ぎないことだった。

 つまりラップは、白人のティーンが夢見る危険な黒人像を一方では引き受けつつ、もう一方では、黒人のティーンにとってリアルに感じられる程度には抑制されている必要があり、その交点に浮かび上がるイメージに過ぎないということだ。そうした偽装性を「仮面(ペルソナ)」や「キャラクター」といった言葉で論じる点は、「黒と白の弁証法」を論じた『アメリカ音楽史』にも通じているだろう。

 

 こうした解釈は、リスナーとして精神的に疎外されたラップを距離化し、記号に接するように聴くためのシニカルな知性とも言えるだろう。が、そのイメージの荒波を泳ぎ切り、海の底を覗き込んだら、そこには「アメリカ」が映っていた、だから現在的な現象として「は」評価できる、というオチ。批評の観点からは評価が高いようだが、正直、こうしたシニカルさに乗れる気分ではなかった。

 

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著者:マーク・コステロデイヴィッド・フォスター・ウォーレス
監修:佐藤良明
訳者:岩本正恵
出版社:白水社
初版刊行日:1998年6月20日