Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

ユホ・クオスマネン監督『コンパートメントNo.6』映画評|世界の果てへの旅

(画像は公式Twitterから転載)

 

 モスクワから、世界の果てのような北部の街・ムルマンスクへと向かう寝台列車で、一組の男女が相席となる。

 男から見れば、女は、かわいいけど不愛想。イヤホンで音楽を聴いたり、窓の外に向かってビデオカメラを回したりするばかりで、世間話もできない気取ったやつ。いつも仏頂面で、イライラしていて、いったい何が楽しくて生きているのかまったく想像もつかない。

 女から見れば、男は、自分が住んでいる文化的な世界とはおよそかけ離れた、低俗で野蛮な人間。暇さえあれば酒を飲み、ぐいぐい絡んでくる。興味本位の質問が、とにかくだるい。距離の詰め方がウザい。いったい何のために生きているのか想像もつかない。

 

 およそここに、ロマンスの予感などないと言ってよい。階層が違い過ぎるし、共通の話題が何もない。隔てられた世界は、隔てられたままの方が居心地が良いし、何もいじることはない。わずか数日の移動だ、身の安全を守りつつ、適当にやり過ごしておけばいい。ひとたび駅に降りれば、もう二度と会うことはない他人同士なのだ。あとちょっとの辛抱じゃないか、あとちょっとの。

 

 その女・ラウラの振る舞いを見ていると、素性の知れない男と相席になってしまったのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、都会暮らしの人間はもはや他人を犯罪者予備軍としか見ていないのだな、ということがよく分かる。

 人との距離も、うんと遠く取る。電車でたまたま相席になった人間と世間話をするなんて、時間つぶしにしてはコスパが悪いし、そもそも自分にとって何のメリットもない。変に優しくして勘違いされたら困るし。

 そんなことよりも私は、もっと文化的なもの、価値があって崇高なもの、深くてリアルな物事を勉強しなければならないのだ。こんな男に構っている暇はない。ちょっとでもレベルを上げて、クリエイティブ系の恋人に相応しい相手にならなければ。

 この旅だって、北の果ての大地でペトログリフ(岩面彫刻)を見ることによって、自分の文化的なレベルを上げるためのものなのだ。本当は、自分はこんな汚い寝台列車に乗るべき人間ではないのだし、この男だって、本当は自分なんかとは出会うことすら難しい人間のはずなのだ。

 

 ならば本作は、そうした階層の差を(あるいは、それが象徴する何かを)男女がロマンティックに乗り越える不器用な恋愛物語なのだろうか。

 もちろん、そのように語ることもできるだろう。だが、それだけを目指した作品では決してないと思う。女には――相手はひと時の遊び相手くらいにしか思っていないかもしれないが、一応は――恋人がいるわけだし、新しい出会いを求めて旅に出たわけではない。人生に起こり得る事故のような出会いを、あくまで事故として描くことに徹した作品だ。

 

 実際のところ、たまたま予約した寝台列車でたまたま相席になっただけの相手が、自分にとってたまたま特別な意味を持つなんていうことはあり得ないだろう。リチャード・リンクレイターの出来すぎた映画じゃないんだから。と、普通は思う。

 だが、この映画を観ていると、不思議とこうも思う。「たまたま予約した寝台列車でたまたま相席になっただけのだるい男が、どうして自分にとっての100パーセントの相手であってはいけないのか?」と。どうして人生は、そんなにも閉じられていなければいけないのか?

 クソまずい密造酒。貧乏くさいみかん。文学とも音楽とも無縁の、距離感をわきまえないありきたりな世間話。男が彼女に提供するのはそんなものばかりだ。しかしどうしてそこに、人生の真実が含まれていてはいけないのか? どうしてそう想像することすら許されないのか?

 最初は階層の異なる野蛮な男にしか思えなかった寝台列車の同席者は、「いまここにあるもの」で楽しんで生きる方法を知っている人間として、観念的・依存的になっていた彼女の人生を、さしたる共感もないかわりに笑わずに受け止めてくれる。彼女にとってそれは、肯定と気付かぬほど小さな、だが確かな肯定だったのだ。

 

 お洒落さゼロ、サブカル要素ゼロ。本作は、ワーキング・クラス版の『ビフォア・サンライズ』を喰らいやがれ、といった渾身の一作として、まずある。だが決して狭義のロマンス映画ではないし、その観点から無邪気に肯定してしまえば、勘違いおじさんの妄想を応援、ということにもなりかねない。

 それでもなぜ、この映画は特別なロマンティック・ムービーたり得ているのだろうか。それは人生が、本当はこんなにも開かれているのだ、ということの目の覚めるようなロマンが、この二人に託されているからだ。その意味においてのみ、この映画は何かしらのロマンを描いている作品なのだと言える。

 実際、二人がある種のセオリーを辿り、男女としての紋切り型のロマンスを予感してしまった瞬間に陥るぎこちなさはどうだ。二人が胸を躍らせたのは、人生がこんなにも開かれているのだという可能性そのものに対してであり、決してその結果としての「実際的な恋愛」ではなかったのである。

 

 まだ上映している映画館もあるくらいだから、彼女が冬季封鎖された北部の街で、無事ペトログリフ(岩面彫刻)を見ることができたかどうかには触れずにおこう。それが物語の第一の目的であると同時に、いつしか副次的な目的でしかなくなっていくからだ。

 きっと人生は、そこを歩もうとする人にだけ、開かれているのだろう。彼女はそれを学ぶ。世界の果てのような場所に命がけで向かう中で、そんな当たり前のことをようやく学ぶのだ。今までどれだけの人生を無駄にしてしまったのだろう。彼女の人生はまだ、始まってすらいなかったのだ。

 だからこそ、男から届けられる時間差のメッセージは、世間知らずだった彼女自身に対するメッセージとして、「文字通りに」こそ読まれなければならない。後悔を責める言葉として。あるいはもっと大きな、100パーセントの祝福の言葉として。

 

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監督:ユホ・クオスマネン
劇場公開日:2023年2月10日

 

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