Trash and No Star

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スコット・フィッツジェラルド『冬の夢』書評|ずっと昔、僕の中には何かがあった。でもそれは消えてしまった

 「私を構成する9冊」をやれば確実に入ることになるであろう、1934年の『夜はやさし』も、フィッツジェラルドの絶対的な代表作として確固たる地位を確立している1925年の『グレート・ギャツビー』も、恥ずかしながら話の筋はあんまり覚えていない。最後に読んでからどちらも10年は経っていると思うし、なんというか、「ザ・傑作文学」という威圧感がないのである。

 それこそ、評伝の中で名前が挙がりがちなウィリアム・フォ-クナーの『アブサロム、アブサロム!』なんかと比べれば、その重厚さは比較にすらならないと思う。デビュー間もない頃の村上春樹が浴びた、「この程度のもので文学と思ってもらっては困る」という批判は、アメリカ文学界においてフィッツジェラルドが浴びた批判と同種のものだったのかもしれない。

 一方、アーネスト・ヘミングウェイは、フィッツジェラルドならばアメリカ人初のノーベル文学賞が取れるのではないかと考えていたようだが、それとて、『グレート・ギャツビー』のような長編小説が1920年代に立て続けに出版されていれば、という仮定の話だろう。実際に書かれたのは、「歯医者の待合室での退屈な30分を共に過ごすにはうってつけ」な短編小説の山だったのだ。

 

 もう一度、思い出してみたい。『夜はやさし』が自分の中に残したのは、ある抽象的なムードのようなものだった。何度書き直しても恐ろしいほどの紋切り型になってしまうのだが、それはつまり、「美しいものが失われ、二度と戻っては来ない」という感覚である。話の筋ではなく、その翳りの感覚が、私の深いところにこびり付いて離れず、大袈裟に言えば人生観にまで少なからぬ影響を及ぼしていると思う。

 フィッツジェラルドがすごいと思うのは、そんな美しいものの絶頂から崩壊までを描きつつ、その急激な落差を、悲劇や感傷のための演出としてはほとんど利用していないことである。別離や喪失によって何かが「逆に」燃え上がるようなことはない。別離はただ別離として、喪失はただ喪失として描かれており、それを止めることは誰にもできない。それを取り戻そうとすれば、より多くのものを失ってしまうだけだ。

 その一方で、厭世的な方向へ開き直っているわけではないことも、同じくらい重要だと思う。「だったら生きる意味なんかないんじゃないか」とは決して言わないのである。それは物事の必然なのであって、どちらか片方だけを欲することはできないし、どちらか片方だけを回避することもできないのだ。もちろん、「その痛みをあらかじめ引き受けて生きるぜ」という、変な勇ましさにも陥っていない。

 この平衡感覚があるからこそ、フィッツジェラルドは絶頂と喪失の両方を美しく描くことができたのだと思う。

 

 前置きが長くなってしまったが、本書『冬の夢』は、訳者・村上春樹のあとがきにもあるように、初期フィッツジェラルドの短編集である。「若き日の名作集」と言うだけあって、海外のベスト・リストに選ばれるような有名作品がずらりと並んでいる。『マイ・ロスト・シティー』のような構造や年代上の散漫さもなく、同時期の短編5作をじっくりと楽しむことができる。

 収録作は、「冬の夢」「メイデー」「罪の赦し」「リッツくらい大きなダイアモンド」「ベイビー・パーティー」で、これと『マイ・ロスト・シティー』収録の「残り火」と「氷の宮殿」を合わせれば、1920年から1925年まで(訳者言うところの「プレ・ギャツビー」期)に発表された主要10作のうち7作*1を一気に読むことができる計算だ。

 

 ひとつひとつ、あらすじを紹介すべきとも思ったが、やめておこう。大枠はすでに書いたとおりだ。「冬の夢」や「メイデー」では、美しい愛が描かれる。そして、その喪失も。これが常にセットだ。そして、愛は記憶の中でこそ美しく、一度蓋をしてしまったものは、決して開けてはいけないのだ。浦島太郎が持たされた玉手箱みたいに。

 話としては「冬の夢」の方がよくまとまっているが、玉手箱を開けてしまった「メイデー」での、失われた恋人たちの再会から別離までの起伏が何とも素晴らしい。「愛は脆いものだ」――変わり果てた最愛の男と空しいダンスを演じながら、町で一番の美女・イーディスは思うのだった。本来はこの場所で、まさにこの瞬間に、「口にされるかもしれなかった」言葉の甘美さを思いながら。

 この二作が、「結婚」というものが象徴する実人生のみじめさを根っこにしているとすれば、「ベイビー・パーティー」はむしろ、そのみじめさの中に「小さな、次なる愛」を見い出そうとする、いささか凡庸ながらも興味深い作品だ。この作品を読んで、華やかなイメージが先行しがちなフィッツジェラルドも、案外レイモンド・カーヴァーと近い場所にいた作家だったのではないか、と思った。

 

 こうやって書くと、いかにも大衆作家のように思われるかもしれないが、フィッツジェラルドの中にも十分に昇華しきれなかったアメリカ的題材が多くあったようにも思う。実際、「氷の宮殿」では南北戦争を通じたアメリカの分断をどう見ていたかが窺い知れて興味深かったし、本書収録の「罪の赦し」では、信仰を題材に父的なるものを相手にした抑圧と反抗が描かれており、フィッツジェラルドの宗教観が伝わってくるようだ。

 もっとも強烈なのは、SF的とも言える架空の設定を大胆に用いた「リッツくらい大きなダイアモンド」だろうか。さすがに冗長な感は否めないが、サスペンスの要素もあり、少年と少女の生き急ぐような必然的恋愛もあり、あえて言えば上記7作の中でもっとも「村上春樹的」とも言える作品だと思う。とにかく訳者のファンなんだという読者の方は、まずはこの一作を狙い撃ちで読んでみてもいいかもしれない。

 

 いずれにせよ、どれもシンプルに面白い作品ばかりだ。歯医者の待合室で読んでも、手痛い失恋の後の寝室で読んでも、何か感じるものがあるのではないだろうか。フィッツジェラルドの年表に照らし、訳者は律義に「プレ・ギャツビー期」と位置付けているが、これらの作品群の年代的な同一性は考慮しつつも、結局のところ、好き勝手に読めばいいのではないかと思う。

 実際、フィッツジェラルドという100年も前の、ノーベル文学賞をもらっているわけでもない作家が、今日でも少なからぬ読者を獲得しているのだとすれば、1920年代という時代性云々、ジャズ・エイジ云々というよりは、もっとシンプルに、普遍的に読まれているのではないかと思うのだ。美しい季節が過ぎ去り、それが二度と戻って来ない人生を生きざるを得ない私たちの、この悲しさを照らす小さな灯りとして。

 

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著者:スコット・フィッツジェラルド
訳者:村上春樹
出版社:中央公論新社村上春樹翻訳ライブラリー〕
初版刊行日:2011年11月10日

*1:ちなみに、残る3作は「バーニスの断髪宣言」と「カットグラスの鉢」と「分別」である。

スコット・フィッツジェラルド『マイ・ロスト・シティー』書評|すべて悲しき若者たち

 スコット・フィッツジェラルドは、44年というその短い生涯で、160もの短編を残したと言われている(Wikipediaでそのリストを眺めることができる)。

 荒地出版社から1981年に出ている3部作――わが国最初の年代別作品集とう触れ込みである――の第1巻『ジャズ・エイジの物語』に収められた訳者解説「フィッツジェラルド――人と作品」にいろいろと詳しいことが書いてあるが、とにかく彼には、すぐに動かせる現金が大量に必要だったというのは有名な話である。

 一気に書けて、原稿料がパッと手に入る大衆雑誌への短編の寄稿が、フィッツジェラルドにとっての貴重な定期収入であり、いち妻帯者としての生命線だったというわけだ。もちろん、そこで得られた現金の大半は、妻・ゼルダとの派手な私生活に消えていった。眩いまでに美しく、そして金のかかる結婚だった。

 

 これも先の「フィッツジェラルド――人と作品」に書いてあることだが、ある批評家の言うところでは、自転車操業的に書かれた大量の短編のうち50編が「真面目で成功した作品」であり、さらにその半分(つまり25編程度)が「傑作」であるという。より厳密には、ズバリ28編というのが文芸批評の世界である程度定着した数だそうだ。

 その定番28編の選定をややアレンジして再構成したのが、荒地出版社から出ている先の3部作であるから、まずはそれを古本で探すのが手っ取り早いだろうが、翻訳の読みやすさや入手のしやすさなどをもろもろ加味すると、やはり、多くの人はフィッツジェラルドの熱心な紹介者の一人である村上春樹を頼ることになるのではないかと思う。

 

 そんなわけで、紹介しよう。本作『マイ・ロスト・シティー』は、訳者・村上春樹のセレクトによる「短編小説5編+その他いろいろ」である。先の『ジャズ・エイジの物語』と同じく、1981年の5月に最初の単行本が出ていて、3年後に文庫化されている。これはそのライブラリー版の新訳だ。

 訳者にとって「生まれて最初におこなった翻訳作業であった」ということもあるだろうし、「(1984年の時点で)翻訳が発表されていないものを選んで訳した」ということもあるだろうが、全体の構成が初見の人にとってはいささか分かりにくいものになっている。

 例えば、最初の「フィッツジェラルド体験」は、巻頭に置くにはいささか力の入りすぎた訳者による評伝だし、最後の「マイ・ロスト・シティー」はフィッツジェラルドによるエッセイであるから、普通に読んでいくとなんとなくスッキリしない。

 純粋な意味での短編は「残り火」「氷の宮殿」「哀しみの孔雀」「失われた三時間」「アルコールの中で」の5編だが、荒地出版社のシリーズと違って年代もバラバラ。しかも、2006年のライブラリー版発行に伴い、「ニューヨーク・ポスト」による1936年のインタビューまで追加収録されているので、さらに複雑な構造になってしまっている。

 おまけに、このシリーズとは別に、中公文庫から『フィッツジェラルド10』なんていう傑作選まで出ているようで、そんなことをするくらいなら、全体のボリュームを落とさずに、もう少しこのライブラリー・シリーズを体系的に再整理してもらえたら嬉しいなと思うのだが、叶わぬ願いだろうか。

 

 もっとも、こうした構造上の欠陥――と言うほどのものでもないかもしれないが――は、実際の読書体験にはほとんど影響しないのもまた事実である。それは、「残り火」や「氷の宮殿」といった作品が、とてもじゃないが1920年というデビューの前後に書かれた初期作品とは思えないからだ。

 いま思えば、自らの将来を決定的に予見しているようにも読める「残り火」では、美しい妻をもらった流行作家が、ある日突然植物状態になってしまって、希望の残り火が完全に消えてしまうまでの過程を描いているし、「氷の宮殿」では、いかにもアメリカ文学らしく、南北戦争を題材に、運命のように強く惹かれ合った一組の男女が、まさにその南北の精神的な距離によって決定的にすれ違っていく過程を淡々と描いている。

 崩壊は、おそらく予感されている。それでも、私たちにできることなんて何もない。「二人の前を、人生はあまりに速く通り過ぎていった」――そう、ここにあるのは終わりだけだ。その抑制されたストーリーテリングに改めて驚かされた。

 

 金も仕事もなかったとはいえ、第一次世界大戦が終わり、世界の絶頂を謳歌しつつあったアメリカ合衆国で、若干24歳の美青年がなぜこのような物悲しい、老成した短編を次から次へと書いていたのかは謎であり、魅力でもある。

 もっとも、デビュー当時からこのような必然の破滅を描いてきたフィッツジェラルドが、自らの身に降りかかった実際の破滅を味わった後に、さらに救いのない、具体的な破滅を描くようになったことを、どこまで単純に「魅力」と言って受け入れてしまっていいのかは分からないが。

 

 実際、この5編の中では傑出した「哀しみの孔雀」は、人生の手酷い仕打ちに打ちのめされた、ある親子の話である。父親は事業に失敗し、妻は入院となり、娘は私立校から公立校へ移り、やがてはそこも放校にされるという。そこに救いなんてものはないが、かと言って小説として付け加えるべきものも何もないのだ。

 元は1935年に書かれたものの、『サタデー・イブニング・ポスト』誌によってボツにされ、死後、『エスクァイア』誌によってエンディングの数章が省略された形で1971年に掲載されたという経緯もまたこの作品に相応しいような気もするが、これは編集者の判断が正しかったと言うべきだろう。

 それが紙幅の制限によるものだったのか、文学的判断だったのかまでは分からないが、この大胆な省略をもってして初めて、この作品はフィッツジェラルドの作品リストに連なる資格を得たとさえ言えると思う。

 「暗い破局の日がやってきた」――その急落は美しいほどだが、そうした人生の「底」で、もうお互いに与え合うべきものは何もなく、だからこそお互いを与え合うことで本当の意味で心を通わせることのできた親子に訪れる、束の間の、温かな沈黙。その深い余韻に圧倒される。

 人生はただ失われていくだけだ。でも、このような一日もあるのかもしれない。

 

 その後の2編、まず1941年の「失われた三時間」は、まさに「歯医者の待合室での退屈な30分を共に過ごすにはうってつけ」な小話で、1937年の「アルコールの中で」は、穏やかに読み切ることのできない著者の悲惨な自画像である。いろいろと小言も言ったが、やはりこうやって芸もなく並べてみると、フィッツジェラルドの素顔を少し覗いたような気になれる佳作揃いだ。

 そもそもの話、1934年の『夜はやさし』は、Twitter的な「私を構成する9冊」をやれば最初の方に入る作品なのだが、自分がその作品のどこにそれほどまでに惹かれたのか、この短編を読み直すことで今更ながらに少し分かった気がする。

 そんなふわふわな人のガイドは受けたくないだろうが、もし何かの間違いでここからフィッツジェラルドを読むことになったという人がいるなら、まずは5つの短編を前から順に読み、いったん訳者による評伝「フィッツジェラルド体験」で著者のおおよその暮らしぶりや作品世界を理解してから、巻末に付いている1936年の「インタビュー」でそれを補強し、同年のエッセイ「マイ・ロスト・シティー」を最後に読むのがおすすめだ。

 ある都市と、時代に強く求められ、やがてそれが無慈悲に過ぎ去っていくことがどういうことか、完璧に理解できると思う。

 

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著者:スコット・フィッツジェラルド
訳者:村上春樹
出版社:中央公論新社村上春樹翻訳ライブラリー〕
初版刊行日:2006年5月10日

 

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ユホ・クオスマネン監督『コンパートメントNo.6』映画評|世界の果てへの旅

(画像は公式Twitterから転載)

 

 モスクワから、世界の果てのような北部の街・ムルマンスクへと向かう寝台列車で、一組の男女が相席となる。

 男から見れば、女は、かわいいけど不愛想。イヤホンで音楽を聴いたり、窓の外に向かってビデオカメラを回したりするばかりで、世間話もできない気取ったやつ。いつも仏頂面で、イライラしていて、いったい何が楽しくて生きているのかまったく想像もつかない。

 女から見れば、男は、自分が住んでいる文化的な世界とはおよそかけ離れた、低俗で野蛮な人間。暇さえあれば酒を飲み、ぐいぐい絡んでくる。興味本位の質問が、とにかくだるい。距離の詰め方がウザい。いったい何のために生きているのか想像もつかない。

 

 およそここに、ロマンスの予感などないと言ってよい。階層が違い過ぎるし、共通の話題が何もない。隔てられた世界は、隔てられたままの方が居心地が良いし、何もいじることはない。わずか数日の移動だ、身の安全を守りつつ、適当にやり過ごしておけばいい。ひとたび駅に降りれば、もう二度と会うことはない他人同士なのだ。あとちょっとの辛抱じゃないか、あとちょっとの。

 

 その女・ラウラの振る舞いを見ていると、素性の知れない男と相席になってしまったのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、都会暮らしの人間はもはや他人を犯罪者予備軍としか見ていないのだな、ということがよく分かる。

 人との距離も、うんと遠く取る。電車でたまたま相席になった人間と世間話をするなんて、時間つぶしにしてはコスパが悪いし、そもそも自分にとって何のメリットもない。変に優しくして勘違いされたら困るし。

 そんなことよりも私は、もっと文化的なもの、価値があって崇高なもの、深くてリアルな物事を勉強しなければならないのだ。こんな男に構っている暇はない。ちょっとでもレベルを上げて、クリエイティブ系の恋人に相応しい相手にならなければ。

 この旅だって、北の果ての大地でペトログリフ(岩面彫刻)を見ることによって、自分の文化的なレベルを上げるためのものなのだ。本当は、自分はこんな汚い寝台列車に乗るべき人間ではないのだし、この男だって、本当は自分なんかとは出会うことすら難しい人間のはずなのだ。

 

 ならば本作は、そうした階層の差を(あるいは、それが象徴する何かを)男女がロマンティックに乗り越える不器用な恋愛物語なのだろうか。

 もちろん、そのように語ることもできるだろう。だが、それだけを目指した作品では決してないと思う。女には――相手はひと時の遊び相手くらいにしか思っていないかもしれないが、一応は――恋人がいるわけだし、新しい出会いを求めて旅に出たわけではない。人生に起こり得る事故のような出会いを、あくまで事故として描くことに徹した作品だ。

 

 実際のところ、たまたま予約した寝台列車でたまたま相席になっただけの相手が、自分にとってたまたま特別な意味を持つなんていうことはあり得ないだろう。リチャード・リンクレイターの出来すぎた映画じゃないんだから。と、普通は思う。

 だが、この映画を観ていると、不思議とこうも思う。「たまたま予約した寝台列車でたまたま相席になっただけのだるい男が、どうして自分にとっての100パーセントの相手であってはいけないのか?」と。どうして人生は、そんなにも閉じられていなければいけないのか?

 クソまずい密造酒。貧乏くさいみかん。文学とも音楽とも無縁の、距離感をわきまえないありきたりな世間話。男が彼女に提供するのはそんなものばかりだ。しかしどうしてそこに、人生の真実が含まれていてはいけないのか? どうしてそう想像することすら許されないのか?

 最初は階層の異なる野蛮な男にしか思えなかった寝台列車の同席者は、「いまここにあるもの」で楽しんで生きる方法を知っている人間として、観念的・依存的になっていた彼女の人生を、さしたる共感もないかわりに笑わずに受け止めてくれる。彼女にとってそれは、肯定と気付かぬほど小さな、だが確かな肯定だったのだ。

 

 お洒落さゼロ、サブカル要素ゼロ。本作は、ワーキング・クラス版の『ビフォア・サンライズ』を喰らいやがれ、といった渾身の一作として、まずある。だが決して狭義のロマンス映画ではないし、その観点から無邪気に肯定してしまえば、勘違いおじさんの妄想を応援、ということにもなりかねない。

 それでもなぜ、この映画は特別なロマンティック・ムービーたり得ているのだろうか。それは人生が、本当はこんなにも開かれているのだ、ということの目の覚めるようなロマンが、この二人に託されているからだ。その意味においてのみ、この映画は何かしらのロマンを描いている作品なのだと言える。

 実際、二人がある種のセオリーを辿り、男女としての紋切り型のロマンスを予感してしまった瞬間に陥るぎこちなさはどうだ。二人が胸を躍らせたのは、人生がこんなにも開かれているのだという可能性そのものに対してであり、決してその結果としての「実際的な恋愛」ではなかったのである。

 

 まだ上映している映画館もあるくらいだから、彼女が冬季封鎖された北部の街で、無事ペトログリフ(岩面彫刻)を見ることができたかどうかには触れずにおこう。それが物語の第一の目的であると同時に、いつしか副次的な目的でしかなくなっていくからだ。

 きっと人生は、そこを歩もうとする人にだけ、開かれているのだろう。彼女はそれを学ぶ。世界の果てのような場所に命がけで向かう中で、そんな当たり前のことをようやく学ぶのだ。今までどれだけの人生を無駄にしてしまったのだろう。彼女の人生はまだ、始まってすらいなかったのだ。

 だからこそ、男から届けられる時間差のメッセージは、世間知らずだった彼女自身に対するメッセージとして、「文字通りに」こそ読まれなければならない。後悔を責める言葉として。あるいはもっと大きな、100パーセントの祝福の言葉として。

 

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監督:ユホ・クオスマネン
劇場公開日:2023年2月10日

 

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