Trash and No Star

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チェーホフ『ワーニャおじさん』書評|霞ゆく人生の蜃気楼

 近代戯曲とは言え、100年以上も残っているチェーホフの古典を素朴に読んで、素朴な感想をインターネットで書き記すことに、いかなる意味があろうとも思わない。すでに莫大な量の研究、評論が存在しているはずであり、書評と称するからには、まずはそれらの基本を押さえてから、というのが通常の前提条件になるだろう。

 実際、これを第二の原作として撮られた濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』では、俳優たちによって大いなる敬意とともに「本読み」されている作品でもあり、勝手な感情移入や分かったような自己表現は固く禁じられていた。あくまで、テキストに身を委ね、テキストの側から立ち上がってくるものを待つ。ステージは、そうした神聖なものの「再生」の舞台でもあった。

 

 だが、近代戯曲が100年残るとはどういうことなのかを考えると、それを可能にするのはこうした演劇的、文学的リスペクトや研究の蓄積だけではあるまい、とも思う。村上春樹じゃないが、まず第一に、「身銭を切って本を買ってくれる」普通の読者が100年間存在し続けた、ということだろう。評論家が100年間ほめ続けたところでこうはいかない。

 そう、文脈や時代背景など一切無視した手ぶらの読者が100年間、この作品の前で立ち止まり、勝手に感動したり怒ったりしながらまた通り過ぎていく。そういう事故みたいなことが100年間続いた結果のチェーホフだろう、と思うのだ。時間による洗練とは、まず何よりも、こうした前提を共有しない読者への開示と、何の忖度もない審判のことを言うのではないか。

 このような予防線を張り巡らせて、では、お前はどう読んだのか?と問われれば、自分にはミッドライフ・クライシスの話に思えた、と言ってしまうほかない。これは『ドライブ・マイ・カー』の原作『女のいない男たち』に収められた短編群を読んだ時の感想と全く同じである。原作を読んで、映画を観て、この「第二の原作」を読んで、また元の場所に戻ってきた感じだ。

 

 一応、説明しておこう。タイトルにもなっているワーニャは、47才。彼が暮らしているのは、今は亡き妹・ヴェーラが大学教授・セレブリャコーフと結婚するために父親が借金までして購入した土地であり、ワーニャは残った借金を返すために人生を捧げ、今日までの25年間、「牛のように」働いてきた。すべては、その土地を管理、運用し、ヴェーラが残していった姪・ソーニャを養い、セレブリャコーフを食わせてやるためだ。

 そのセレブリャコーフが、大学を定年退職し、27歳の後妻・エレーナを連れて帰郷することでこの田園生活劇は幕を開ける。

 結局のところ、何者にもなれないまま帰郷したセレブリャコーフの底を見たような気がして、ワーニャは絶望する。自分はこんな、「成功や名声や騒がれることが生き甲斐」な男のために自分の人生を捧げ、今日まで暮らしてきたのかと。妹がこの男に恋をしさえしなければ、「ショーペンハウエルにもドストエフスキーにもなれた」はずの自分が、わずかな月収と引き換えになんの変化もない田舎暮らしに甘んじている。

 しかも、悪魔的な美しさのエレーナに心を奪われ、彼女と十年前に出会っていたことを思い出しながら、自分と彼女との結婚が「十分すぎるほどに、ありえたことだったのに!」と悔やむ始末である。傍から見れば大笑い、だが本人からすればどこまでも本気の、人生の蜃気楼だ。

 あり得たかもしれないもう一つの人生は、確かにどこかにはあったのかもしれない。だが、ギリギリ引き返すことができた時はすでに過ぎ去った。それを受け入れることの恐ろしさ。もっとも、大騒ぎするほどのことでもない。それとて名もなき庶民の、数多く破り捨てられた夢の一つでしかないのだから。この落差において、悲劇というよりは喜劇にも思える、だからこその「田園生活劇」なのだと思った。

 

 訳者解説によれば、世間には本作を「のっけからアーストロフとエレーナのラブ・ロマンスとして演出」し、またそれを積極的に受容するという向きもあるようで、なるほど、個人的にはそんな読み方があるのかと仰け反ったくらいだが、エレーナは、ただ単に「実際にそのように美しいエレーナ」であると同時に、一人前の男になった証=トロフィーワイフという象徴的な存在でもあるのではないか。

 つまり自分には、ワーニャには全く反応のしない彼女が、ワーニャと同じくこの町唯一の「まともなインテリ」であったアーストロフに対して心を動かすのは、この男が、ソーニャが夢中になっている「実際にそのようにエレガントなアーストロフ」であるだけでなく、まさしくワーニャがエレーナに出会っていた時の年齢である37歳の男であることの反映でしかないように感じたのだ。

 やや図式的な整理になってしまうが、本作は、「自分だってこれくらいにはなれていたかもしれない男」としてのセレブリャコーフから、「自分にだってこれくらいの可能性が残っていたことを思い出させる男」としてのアーストロフが、象徴的なトロフィーとしてのエレーナをかすめ取っていく様子を、「人生を台無しにしてしまった男」としてのワーニャは指をくわえて見ていることしかできない、という、家父長になり損ねた男のドラマなのである。

 

 もっとも、エレーナは実際にはもっと複雑な人間であり、「考える」という最大の抵抗手段を放棄してしまっていることも含めて、家父長制の中に取り込まれている構造が存在している。そこはぜひ、訳者解説を参考にして欲しいが、アーストロフにしろ、ワーニャにしろ、日々の生活を乗り切るために酒の力に頼り、「月に一度くらい、徹底的に飲む」わけだが、その理由が、「せめて生きてるって感じがするから」というのは、なんという真実の言葉なのだろう。

 これは『桜の園』などにも並ぶ古典中の古典である、「真剣に」、「深く」読まなければ、という抑圧を鎮めつつ、かと言ってどこまで世俗的に読んでいいのだろうか、という迷いの中で、この言葉は人生の中から出てきた言葉だな、と思えた。「わたしらは皆、神様の居候ですもの」という乳母の悟ったような言葉も、ソーニャによる最後の場面のあの慰めの言葉も素晴らしいが、人生を受け入れていくためにはただ酒を飲み、蜃気楼の中を生きていくしかない、ということもまた文学なのではないか。

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著者:アントン・パヴロヴィチ・チェーホフ
訳者:小野理子
出版社:岩波書店岩波文庫
初版刊行日:2001年9月14日

 

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三宅唱監督『ケイコ 目を澄ませて』映画評|誰に祝福されるでもなく生きる

(画像は公式Twitterから転載)

 

 きっとこれは繰り返されることになるのだろう、思わずそう確信する冒頭のショットにぼんやりと見入る。事実、夜の街灯に群がる白い蛾のような雪は、やがて閉鎖が決まったボクシングジムに溜まった埃となって再び宙を舞うだろう。

 あるいは、縄跳び、ウエイトトレーニング、コンビネーションミットなどによって生じる機械のように正確な反復音は、やがて電車が線路を走る際の走行音と共鳴し、映画全体の通奏低音として心地よいグルーブを生んでいくだろう。

 雪と埃。運動音と走行音。ツッタッ、ツッタッ、ガタン、ゴトン。本作『ケイコ 目を澄ませて』は、そうした分かる人にしか分からないほどの弱いつながりで結ばれたものたちが、誰に祝福されるわけでもなく、自らも知り得ないような類似性の中でただ離ればなれに存在していることについての映画である。

 

 では、先天的に耳が聞こえないボクサー=ケイコ(岸井ゆきの)が、誰に祝福されるでもなく存在し、闘うということはいったいどんなことなのか。

 彼女が抱える違和感。例えば、ホテルで働く客室清掃員でもある彼女に、周囲の人間がかける「試合楽しみにしてるね」「次の試合、楽しみだね」みたいな言葉。ここでの三宅監督なり、岸井は、分かりやすい戸惑いを描くことを控え、ケイコから特にリアクションらしいリアクションは返していない、ように見える。こういった時に流れる空白の時間、その「間」がうまいなと思う。

 なるほど、傍から見れば「障がい者がお情けで社会参加させてもらっている」ような構図に見えるのだろうか。だが彼女が立っているのは、相手を殺す気でやらなければ、勝つことはおろかリングに立つことさえ不可能な世界なのだ。「楽しい」わけがない。少なくともそれは、あなたたちの言う意味での「楽しみ」ではない。

 実際、プロデビュー2戦目となる試合で辛くも勝利するものの、激しい打ち合いとなったその試合で受けたダメージは彼女の闘志を奪ってしまう。少しずつ、身体を蝕んでいく病のように、それは彼女の心までをも包み込んでしまうのだ。なんだかすべてが夢だったかのように、その時の彼女にとってリングは途方もなく遠い場所に思える。わずか100分足らずのこの映画は、物語としては、そうした彼女の再起を描く作品である。

 

 契機となるのは、他のどのジムでも門前払いになっていた彼女をプロのリングにまで導いた会長(三浦友和)が、地域の再開発や自身の体調不良などを理由にジムの閉鎖を決断したことだ。

 この会長と、二人のトレーナーだけが知っている。ケイコがどれほど危険な場所で闘っているのかを。そして、彼女がどれほど勝利に飢えているのかを。それは実の母親ですら知らない、知ろうとすれば知れるかもしれないのにそれをしようとしない、ケイコの存在を証明する圧倒的な何かなのだ。

 だからこそ、彼女の中に「恐怖」の存在を認めるや否や、彼らは彼女をリングから遠ざけようとする。そうした状態で続けられる競技ではないのだ。母親は、ウンザリしたような顔で「そろそろいいんじゃない」と言う。「女にばかり教えているし、こんなジムでは強くなれないと思って」と言って辞めていく練習生さえいる。これが、ケイコが背負っている、誰に祝福されるでもない孤独な闘いである。

 

 これはもはや言うまでもないことだし、文字にしてしまえば途端に陳腐になってしまうのだが、誰に祝福されるでもなく、自らも知り得ないような類似性の中でただ離ればなれに存在しているもう一対の、そしてこの作品最大のペアは、ケイコと会長である。

 劇中、観客の疑問を代弁するような仕込みでやや興ざめではあるのだが、記者からの質問に答える形で、会長が「ケイコがボクシングに打ち込む理由」などを代弁する場面がある。もともと口下手な会長の饒舌さはいかにも間に合わせで、そこでのもっともらしい「ストーリー」は、会長が日頃、ケイコの練習量から感じていることとは乖離した見解であることは、誰の目にも明らかだ。また、ケイコ自身が職場の同僚に冗談めかして答える理由も、その場をはぐらかすための分かりやすいダミーでしかない。

 決してこういう形で言語化されるわけではないのだが、彼女の存在すべてを捧げて初めて、それに値する何かが返ってくるのがボクシングなのである。そんなものを簡単に言葉にできるわけがない。「愛」なんて生やさしいものですらないのだと思う。それが命を懸けた殴り合い――格闘技、と便宜的に呼ばれている――であり、命を懸ける値打ちのあるものであることを知る者同士として、ケイコと会長は誰に祝福されるでもなく、自らも知り得ないような類似性の中でただ離ればなれに存在しているのだ。

 

 そして、閉鎖されるジムへのはなむけとして、あるいは自身のプロボクサーとしての再起を賭けたであろう全身全霊のプロ3戦目で、彼女は敗北する。

 会長の妻は、彼女の敗戦を知るや否や、「あー、なんだかお腹すいちゃったね」と言って、さしたる興味もなさそうにタブレット端末の画面を切る。あまり細かいことを書いてもしょうがないが、彼女こそは、体調を崩して入院した会長にケイコのトレーニング日誌を読んで聞かせた張本人なのだが。この断絶。圧倒的な、断絶。

 『やくたたず』や『Playback』で将来を期待された三宅監督であればこの匙加減は当然かもしれないが、こうして淡々と描かれるリアリズムに美しささえ感じた。そこでのケイコは、まさに人知れず舞い続ける雪であり、埃である。彼女を温めるのは、いつものあの機械的な――彼女には振動として認知されているであろう――反復音だけだ。

 

 映画の最後、ケイコはどこかへ向かってまた駆け出していく。公式ホームページを見れば、映画のモデルとなった「現実の」世界の恵子がその後、どこへ向かい、どのような物語を辿ったかはおおよそ察しが付く。その意味で、この映画が何を描き、何を描かなかったのかは、確かに重要だ。だが、16mmフィルムで撮られた映画をDVDで観ることの恥をさらしつつ、これからこの映画を観ようという人には、そのような「答え合わせ」は不要だとあらかじめ断言しておきたい。

 逆光気味の淡い夕暮れの中に消えていくケイコを見届ける誰もが、どんな形であれ、彼女の物語がそこで終わらなかったであろうことを確信するからだ。仮に、それが誰に祝福されるわけでもないのだとしたら、どうしてせめて、自分で自分の全うしつつある「生」を祝福することが許されないのか。音楽も途切れたエンドロールの深い余韻の上に、ただ映画と人生が広がっている。「逆に勇気をもらえました」とか、そういう類の消費ではない。自分の生き方を自分で決めることの美しさに圧倒される。

 

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監督:三宅唱
劇場公開日:2022年12月16日