Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

目取真俊『沖縄「戦後」ゼロ年 』『ヤンバルの深き森と海より』書評|海を受け取ってしまったあとに(12・13)

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 目取真俊の本を読んで無傷で済む人はほとんどいないだろう。本土で平和憲法の幻想とともに暮らす「踏まれている者の痛みに気づかない者」たちの足を、踏まれている側から切り裂く一方、同じくらい鋭い言葉で、沖縄内部の迷いや分断を内側からえぐってもいるからだ。

 観光業への依存が増すにつれ、本土の側が思い描く「明るくおおらかな人間像」を積極的に内面化していく沖縄の人々。あるいは、「基地が生み出す利権や政府への依存を当たり前と見なす」沖縄の人々。あえて単純化した仮想敵のようなものなのかもしれないが、著者はそうした人々に向けて批判をためらわない。 刃物のような文章は、沖縄の中にも外にも向けられている。

  

 沖縄に戦後などなかったと叫ぶタイトルのとおり、「戦後60年」という時代認識そのものへの抵抗として書かれた2005年の『沖縄「戦後」ゼロ年 』。そして、2006年以降の時評がまとめられた『ヤンバルの深き森と海より』を通して読むことで明確になるのは、この芥川賞作家にとって沖縄とは、自身の文学を強化するための「素材」ではない、ということである。

 著者にとって沖縄とは、変えるべき現実そのものであり、抑圧や抵抗の象徴ではない。高江を止める、辺野古を止める。そのためには現場に行き、文字通り工事を「止める」しかない。著者の運動理論はその一点で貫かれており、文学が現実を凌駕することはない。結果、著者は執筆時間も読書時間も返上し、もっともハードな反対運動の現場へと向かうことになる。

 

物を壊さず、暴力にも物理的反撃はせず、言葉の上でも挑発的言辞を慎むという徹底的非暴力主義もこの闘いの特徴であった。その伝統を沖縄現代史の上に求めるとすれば、55年ころ圧倒的な米軍事権力と対峙せざるをえなかった伊江島農民の「陳情規定」に行き着く。座り込みのテント小屋に伊江島闘争の象徴・阿波根昌鴻の肖像写真が置いてあったのは、そのことを強く意識してのことであろう。

 

 新崎盛輝は、辺野古における海上座り込み運動のことを、『沖縄現代史』の中でこのように評している。物理的な接触を伴う非暴力直接行動の只中。「従来の平和運動にしばしば見られるように、社会にPRすることを目的にし、形式的に終わってしまうものではない」と、著者は書いている。確かにここからは、県知事を主役に置いた政治闘争史からは見えない荒々しい景色が見えてくる。

 その一方で、県民大会や県民投票への懐疑は根深い。これまでの歴史を踏まえてもなお、沖縄に新たな基地が作られるというのなら、抗議のために何十万人が集おうと、署名をしようと、著者の中に残るのは不能の感覚だけである。「沖縄には沖縄の民主主義があり、しかし国には国の民主主義がある」、そう閣僚がコメントしてしまう絶望の国に、私たちは住んでいるのだ。

 

 他にも様々なことがあった。教科書検定問題、大江・岩波裁判、オスプレイ配備、尖閣諸島問題、オール沖縄、著者自身の逮捕、機動隊員による差別発言、辺野古への土砂投入、種々の米軍犯罪、翁長知事の死。すべて『ヤンバルの深き森と海より』の14年の中で起きている。 

 あるいは、こんな話もすべきだろうか。護憲派が好むある種の紋切り型として、「戦後を戦前にするな」というものがある。多少、アジテーション含みにするなら、「今はすでに戦前である」といったところだろうか。安倍内閣が健在だったころにネットでもよく目にした表現だ。

 ここに込められた危機感や切実さを冷笑したいのではない。ただ、目取真俊を知った後にこういった詩的な言い回しを見直してみると、そこには「平和」への絶対的な自信のようなものが読み取れはしまいか。素朴な護憲を強め、憲法9条に置く軸足を強く踏めば踏むほどに、耐え難い痛みの中で踏まれている人がいる。それを忘れずにいたい。

 

 この2冊を貫通するのは、沖縄戦への/からの眼差しである。それは「軍隊は住民を守らない」という記憶に留まらない。「米軍基地のない沖縄島の風景を知る最後のウチナンチュ―世代」が80代になろうとしているのが、この2021年という時の持つ意味なのである。

 失われてはいけないものが、失われつつあるということ。その喪失や忘却を、むしろ積極的に進めたい人たちがいるということ。そして、忘却以上の直接的な暴力がさらに上塗りされていく中で、沖縄に生きるということ。文学を投げ出して実践された抵抗運動の中で書かれた論考は、そうした時代状況に対する著者からの回答である。

 そこで読者は、「戦後」を謳歌してきた自らのやましさを直視し、何らかの応答を返すしかない。たとえやましさの中でのたうち回るしかないのだとしても、せめてそのやましさとは正直に向き合いたい。読者と著者を分かつ「境界線」、あるいは「壁」がどれほど高く、分厚いのだとしても、それに触れることはできるだろうから。

  

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(写真左)
著者:目取真俊
出版社:NHK出版[生活人新書]
初版刊行日:2005年7月10日

 

(写真右)
著者:目取真俊
出版社:影書房
初版刊行日:2020年1月30日