冒頭、ひとりの少女が車に乗り込み、運転手の男に行き先を告げる。素っ気ないその口ぶりからは、恋人や友人といった関係を思わせるような親密さは微塵も感じられず、かと言って、タクシーの乗客と運転手の間に形成される束の間の連帯感さえ、ない。
まだ17歳だというその少女は、30代半ばほどの別の男と公園前で落ち合うと、ほどなくその男の運転する車に乗り込む。最初の男は、いま落ち合ったばかりの二人が近くのホテルに移動することを念頭に、その一部始終を遠くからカメラに収めている。
買春の斡旋と、証拠写真を使ってのユスリ。少女の素っ気なさは、このような方法で生計を立てる二人の関係性から来るものであったことが分かるが、また別の違和感がこびりつく。逆説的だが、それは細部にまで及ぶ暴力描写をめぐる違和感の「なさ」に他ならない。文章が、あまりにも静かすぎるのだ。
その静けさが、二人の深い絶望によってもたらされていることを、読者は遠からず知ることになる。アパートで少女を軟禁した上での買春の斡旋という、支配・被支配の関係にある二人が、実は、より大きな支配構造の一部分にすぎないことが明らかになってくるからだ。二人の自由は、比嘉という男によって完全にロックされていた。
押し寄せるむき出しの悪意。それ以上どこにも転嫁できない、暴力の最果て。ひと時も休まることのない緊張が読む者に迫ってくる。多くのシークエンスは眠りとともにカットされており、それ自体、二人の生きる現実が覚めない悪夢のようであることを演出するかのようだ。
何か特別な落ち度があるわけじゃない。私たちは「ほんの一瞬の差」で、「元に戻ろうにも、もう戻る場所がない」ところまで押し流されてしまう。そうした悪夢のような現実が、光を失った者たちによってそれでもなお生きられようとするとき、『虹の鳥』は鈍い音を立てて軋む。あまりに痛ましく、読者にできることは何もない。
やがて物語は、沖縄の現代史に残る95年10月の県民決起大会と交わりながら、しかしその高揚を遠ざけるようにして終わる。そこでは、85000人の怒りが捧げられることのなかった無名の少女たちの知られざる無念の上で、さらに弱き者が犠牲になるだろう。まさに「ほんの一瞬の差」で、その復讐は執行される。
読後、ナイフで切り付けられたような感覚だけが残った。傑作と呼ぶことすらはばかられる、あまりにも鋭利な一冊。
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