Trash and No Star

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ヨルゴス・ランティモス監督『ロブスター』映画評|15段階中10くらいの愛を死に物狂いで生きる

(画像は公式Twitterから転用)

 

 愛とは何だろうか。

 私たちは、本当に誰かを愛し、誰かに愛されていると言えるのだろうか?

 

 言いようのない気まずさに堪えかねて、ひとまず「イエス」と答えるとしよう。では、その愛とやらは、15段階でどれくらいの強さだろうか。14くらいは行っている? それとも10くらい? だとしたら、15でなくて、それは愛と呼び得るのか? あなたは本当に、誰かを愛し、誰かに愛されていると言えるのだろうか?

 

 すでに多くの人が鑑賞済みという前提の上で、具体的なあらすじに触れてしまおう。一見、私たちが暮らしているこの現実社会と酷似した、そのヨーロッパ風の『ロブスター』的社会においては、人は「一人で生きること」を許されていない。異性愛者であっても同性愛者であってもまったく問題ないのだが、とにかく「独身」で生きることが法的に、全面的に禁じられているのである。

 町には警察による監視網が敷かれており、迂闊に一人で歩こうものならすぐさま職務質問の対象となってしまう。誰かと婚姻関係にあることが確認できなければ、新たなパートナーとマッチングさせるための宿泊施設に強制的に送りこまれることになる。そこで45日以内に他の利用者と結ばれなければ、恐るべき科学力によってあっという間に動物に変えられてしまうのだ。

 

 「結婚」というものへの、凄まじい強迫観念。この『ロブスター』的社会が、どうしてここまで市民に結婚を強いるのかは必ずしも定かではない。出生にこだわっているようにも見えないから、少子化対策というわけでもないのだろう。とにかく、人が成人するために最低限必要な資格だとでもいうような感覚で、『ロブスター』的社会において人は、誰かを愛し、また愛されてもいることを客観的に証明しなければならないのだ。

 もちろん、ここでは現実の社会規範が戯画化され、デフォルメされているわけだが、しかし私たちが生きる「現実のこの社会」が、『ロブスター』的社会よりどれほどマシだと言うのだろう。あるタイムリミットの中で、恋愛的関係の成就を求めてくる点では何ら変わりない。実際、制限時間が45日だろうが100年だろうが、誰しもが「15段階中で15」の相手と『ビフォア・サンライズ』的ロマンスを生きているわけではないのだ。

 建前としての自由恋愛。私たちはそこで、愛なき世界を戦略的に生きる術を身につけているに過ぎない。一見、『籠の中の乙女』と同じように、閉鎖された空間で極めて限定された条件を生きているように見える『ロブスター』的社会の人々は、現実のこの社会に生きる私たちと何ら変わりないのだ。凶暴な暴露。残酷な写し鏡。

 

 長く連れ添った妻に不倫され、11年と1ヶ月の結婚生活に終わりを迎えた男(コリン・ファレル)も、このマッチング施設の中で生き残りを図っていくことになるわけだが、言うまでもなく、たまたま寄せ集められた数十人の中で新たなパートナーなんぞ見つけられるわけがない。そこには、残り時間から逆算した浅はかな計略ばかりが横行することになる。

 興味深いことに、45日以内に探さなければならない「愛」だの「パートナー」とやらは――しばしばこの現実世界でもそうであるように――建前でも良いのである。実際、マッチング施設から脱走した独身者たちによる地下コミューンが森の中に組織されているのだが、そこから施設側に潜入している女性スパイは、好きでもない太った歯医者と結婚し、性行為を伴う仮面生活を虚しく送っているのだ。

 それでも、彼女が警察に摘発されることはない。なぜなら、愛の存在を証明できないのと同様に、愛の不存在もまた証明できないからだ。そう、優先されているのは常に「婚姻関係」という形式なのである。存在も、不存在も証明できないもの。そんな不確かなものを、「結婚」という名のもとに信じようとしているのかと、人は今さらながらに戦慄を禁じ得ないだろう。現実はただ、15段階中10くらいの愛を生きるので精一杯なのだ。

 

 私たちは、共に生きるべき誰かを本当に必要としているのだろうか? 本当に誰かを愛し、本当に愛されたいと思っているのだろうか? 「イエス」と答えるのなら、それはなぜ?

 この『ロブスター』において人は、そうした愛の無根拠さに堪えかねて、結局は単に似たもの同士で惹かれ合ったり(惹かれ合ったことにしたり)、生存のために恋だの愛だのを偽造したりしているに過ぎない。例えば、映画の冒頭で「ロブスターになって100年生きて、死ぬまでセックスしていたい」と願っていたにもかかわらず、その最後には失明した女のために自らもその眼球をくり抜こうとする、この哀れな男のように。

 それは愛の証明でも何でもない。誰かのことを愛していると信じている自分のことを、自分でもまったく信じられないこと、そのリアリズムなのだ。男は制度化された結婚を強いる世界から逃走した地下組織の中で、「真実の愛」に出会ったわけではない。それは一時的な錯覚であり、結局のところ、自分がこだわっているのは形を変えた「別の形式」であるに過ぎないことに気付くからだ。それが最後の、過剰な適応へと結びついている。

 

 もう一度だけ繰り返すが、私たちが生きる「現実のこの社会」が、『ロブスター』的社会よりどれほどマシだと言うのだろう。それどころか、自由に恋愛して自由に運命の人を愛せ、真実の愛を見つけよと言われても、人はただ狼狽えることしかできないではないか。言われなくてもわかっているよ、というところを、ここまで深く抉る悪質さ。

 そう、形式的な婚姻関係を暫定的な「愛」と見なし、むしろ積極的に錯覚することで何かの規範を守った気になっているお前らなど偽物だと、この『ロブスター』は言っている。「真実の愛」という幻を生きる人々に向けられた、悪意の抗議文。ディストピアではなくコメディ。自爆寸前の、ほとんど投げやりな傑作だ。

 

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監督:ヨルゴス・ランティモス
劇場公開日:2016年3月5日

 

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