Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽のレビューブログ。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

又吉栄喜『豚の報い』書評|「遅延の文学」として

 又吉栄喜の小説は、「決定的な事態」の到来を常に予期させつつも、決してそこには到達し得ない不能の文学である。

 思い出してみよう。闘牛大会に連れられた牛が外国車のドアをへこませてしまい、牛を連れていた沖縄人の男が外国人の男に怒鳴られまくる場面を延々と描写した傑作「カーニバル闘牛大会」(1976年)で、事態は作品序盤から一触即発の危機に陥っていたにもかかわらず、結局は何も起こらなかった。途中、あまりの仕打ちに我慢の限界を超えたギャラリーから「タックルセー」などという物騒な声が出始め、さすがにこれは大暴動が避けられそうもないと誰しもが腹をくくるにもかかわらず、長い逡巡と葛藤の果てに、結局「それ」は起こらなかったのだ。

 あるいは、戦時下における沖縄の加害性を問うた傑作「ギンネム屋敷」(1980年)にしてもそうだ。ある沖縄人女性が、町はずれに暮らす朝鮮人の男に路上で犯されたという真偽不明の目撃情報をきっかけに、女の祖父やその仲間たちが、男に対してゆすりを働くのだが、読者は常に、米軍のエンジニアとして働く男による銃を使った反撃や、逆に男に対する集団リンチのような最悪の事態を予期し続けている。おまけに、交渉団のまとめ役を務める男は、まったく個人的な事情によってある「告白」の到来を自らの内に予感してもいる。だが、長い躊躇いの先に、「それら」は決して起こらなかったのだ。

 予期される事態が、訪れそうでなかなか訪れないこと。その意味で又吉栄喜は正しく「サスペンス」の作家であるとも言えるが、しかし又吉栄喜の小説では、それが起こるか/起こらないかという宙吊りの感覚そのものよりもむしろ、サスペンスと拮抗するほど入念に準備された「遅延」の感覚こそが、その作家性として大きいような気もする。

 

 実際、本書収録の二篇においても、事態は相変わらず遅延し続けている。年代で言えば先に発表されている「背中の夾竹桃」(1981年、原題:アーチスト上等兵)は、物語としてはベトナム戦争時の「基地の街」を舞台に、そこでの米兵男性と沖縄人女性との出会いを描いているのだが、彼女らが最後にたどり着くのはあくまで深い余韻であり、特定の結末ではない。

 少し具体的な中身に触れてよいだろうか。まだ十代であるその女・美智子は、かつて沖縄人女性の母と米兵だった父との間に生まれたいわゆる「アメラジアン」であるが、白人の血統を強く感じさせるその美貌を若さとともに持て余しながら、自身もまた少しずつ基地の街へと近づいていく。そこでは、出兵を間近に控えた魅力的なGIが間もなく現れるだろう。

 少し演出を変えれば、スコット・フィッツジェラルド風のロマンス小説にもできそうな内容だが、しかしその「基地の街」は、戦死した父親の幻影が絶えず去来するような場所であると同時に、米兵とのロマンスの予感と、米兵によるレイプの恐怖、この相反する二つの可能性に絶えず板挟みになるような場所でもある。

 あるいは、そのどちらでもあり、またどちらでもないような性風俗業が発展している場所でもあるわけだが、つまりそのようにして、戦後の沖縄社会がさまざまな文学的題材を盛んに提供している。そこで描かれる複雑な、それでいて――こう言ってよければ――豊かな人間模様は、もちろんそれだけで十分に魅力的だ。

 

 だが、「カーニバル闘牛大会」や「ギンネム屋敷」との連続性を感じさせるこうした戦後の沖縄的主題群を前に、やはり事態は徹底的な遅延を見せている。結論を急げば、ロマンスは必ずしも成就せず、暴力も発動しない。人をやや戸惑わせるような美智子の唐突な饒舌も、事態の引き延ばしに一役買っている。

 もちろん、そうした引き延ばしは、処女を誰に渡すかどうか、それが本当に米兵でよいのか、という葛藤の表現でもあるが、「戦後」であるはずの沖縄に、しかし「戦争」が確実に持ち込まれ、またそれとの共存を構造的に強いられてきた歴史に由来するものだとも言えよう。

 つまりそれは、女たちが「死を間近に控えた人間」と生き、暮らし、時に恋をするということであり、「戦後」であるはずの沖縄が、しかし紛うことなき「戦争」と共存してきた、ということの表現でもある。結論のぼかされた、曖昧な越境、曖昧な混交。それが物語の遅延性にゆっくりと帰結している。一読に値する佳作だと思う。

 

 一方、芥川賞受賞作だという表題作「豚の報い」(1995年)では、スナック「月の浜」でアルバイトをする正吉が、非業な死に方をしたがゆえに、地元の風習で10年以上も海岸で風葬されたままになっている父親の供養をどうするか、というのが物語としての基本的な筋になっているのだが、しかしここでも事態はそう簡単には推移しない。

 ある夜、スナックの店内にどこかから逃走してきたらしい豚が侵入し、一通り暴れ回るのだが、その騒動の中でホステスの女がマブイ(魂)を落としてしまうのだ。正吉が普段からスピリチュアルな趣味を持っていたこともあり、この事件をきっかけに、厄払い、すなわち「御願(ウガン)」をしに、みんなで連れ立って正吉の故郷へ行くことになるのである。

 

 父の非業の死と向き合うはずの厳粛な帰郷の旅が、スナック勤めのホステス三人との珍道中へ。当然、物事はダラダラと推移し、決定的な事態は回避され、結論はギリギリまで引き伸ばされていく。

 ようやく故郷の島に着いても、父の死に確実に近づきつつある正吉の思いなどよそに、夜になれば女たちの宴会が始まり、泡盛ががぶがぶと飲まれ、やがて宿の女将も合流してのどんちゃん騒ぎとなる。しかし女将が酔った弾みで窓から落下してしまい、そんな余計な宴会さえもが中断され、正吉が負ぶって深夜の診療所に担ぎ込む騒ぎとなる。

 そうかと思えば、女将を診療所まで負ぶって行ったことのお礼に、宿の主人が四人に潰したての豚肉を御馳走してくれるのだが、今度はそれで食あたりを起こし、正吉も女たちも、果ては診療所の医師までもが下痢を起こす始末となる。この、笑ってしまうほどの遅延。執拗なほどの引き延ばし。

 しかも、皆で寝込み、下痢をし、トイレから離れられなくなっている最中にも、どうやら二枚目らしい正吉をめぐって、お前は診療所に入院しているママを取るのか、宿で苦しむ私たちを取るのかという色恋沙汰までもが追加オプションとして用意されているのだ。これではまったく埒が明かない。その徹底ぶりにおいて面白い作品だなと思う。

 

 もちろん、こうした執拗な遅延ぶりは、父親の死と向き合うのを回避したい正吉の心理を文学的には表現しているわけだが、しかしもう少し引いて考えてみると、又吉文学の一貫した遅延性は、主題や心理描写との連動性や、アンチクライマックスという技法上の工夫にとどまらず、やはり「沖縄的なもの」との向き合い方から来ているのではないか、と思われてならない。

 実際、又吉文学で取り上げられる沖縄的主題群――占領、差別、暴力、そしてアメリカ――は、それが小説の中であっても、「ケリ」をつけることが極めて困難なものばかりだ。だからその解決を代行するのではなく、むしろその困難を文学的停滞に写し取ることを通じて、沖縄の置かれた状況を表現しているのではないか。それこそが、又吉文学における「沖縄性」なのだと思う。

 もちろん、それは著者が「沖縄的主題」を持て余していることを意味しない。むしろ、ここまでのお膳立てが整っているのであれば、そこに着火をすることは極めて簡単なはずだ。だが、又吉栄喜はそれをしない。本土読者も読むであろうその作品内部において、安易なカタルシスを提供することを徹底的に拒んでいる。さらには、沖縄の読者が溜飲を下げることさえも拒む、徹底された禁欲として、この遅延はあるのだ。

 

 だがその徹底だけでは、物語の筋としても、作品構造上の工夫としても、早晩頭打ちになるのは目に見えている。ではその先に、例えばここに並べた四篇の中では比較的新しい1990年代の作品でもあるこの「豚の報い」は、いったい何を描いているのだろうか。

 ひと言で言えば、「沖縄的主題群」をぎりぎりまで引き付けつつも、そこから脱しているのがこの作品ではないか。遅延した展開の中で少しずつ明かされていくことになるのだが、自分ばかりが特別な覚悟を持って帰郷したと思っていた正吉だったが、お荷物だと思っていたホステスの女たちも、それぞれがそれぞれの人生で傷を負い、実はそれぞれの覚悟をもって今回の旅に臨んでいたことを知るのだ。

 人生に隠された秘密。後悔。傷。あるいは罪。それは、最終的には自分の力で乗り越えていくしかない。霊的なものは、そこでは「きっかけ」に過ぎない。そのようにして人生が開かれていく時、スピリチュアルな解決の糸口に見えていた沖縄的風土は後景へと退いていく。そうした文学的な主題を、沖縄的な伝統風俗で解決しないことが、おそらくはこの時点での著者にとっての文学的誠実さとなっているのだ。

 

 もっとも、そうしたある種「開かれた」作品によって芥川賞を受賞したということをどのように評価すればよいのかは、実はとても難しい。

 ここまで開かれるのを待つほかなかったこと自体、審査員側の怠慢でもあるように思うし、だがここまで普遍的なものをすっと書いてしまったこと自体も、ある意味では著者の到達であると同時に、どこか妥協という気もする。が、しかし本作が、「沖縄を題材とした日本文学」としてではなく、仮に「遅延の文学」として評価されたのなら、それはそれで面白いことだと思う。

 

******

著者:又吉栄喜
出版社:文藝春秋
初版刊行日:1996年3月1日