Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

藤井誠二・ジャン松元『沖縄ひとモノガタリ』書評|何かの象徴でも代表でもなく

 「沖縄」という一点のみでつながった、47人分のポートレート。いい意味でラフというか、この47人に何かを代表させたり、沖縄の何かを要約させたり、そういった作為を感じないのがいい。読者はほんの束の間、47人の人生の内側に触れ、また離れていく。その繰り返しの中で、今まさに生きられている誰かの人生と、誰かの沖縄を知る。

 

 ラッパー、社会学者、居酒屋経営者、民謡歌手、作家、珈琲屋台の店主、料理研究家建築士、画家、イベンター、映画監督、アクティビスト、とび職、まちづくりファシリテーター、編集者、沖縄県知事。これはほんの一例だが、本書に登場する47人の肩書や生業、知名度、年代、出身地から現在地に至るまで実に様々で、当然、沖縄との関わり方も様々だ。

 一体、ここには何が収められているのか? やや強い言葉を選ぶなら、それは「コミットメント」ということになるだろう。もう少しソフトな言葉を選ぶにしても、「問題意識」となるのではないか。多くの語り手には、それぞれ沖縄社会への問題意識があり、だからこそ、それぞれの肩書に基づく関わり方がある。もしくは、それぞれの関わり方の結果として、それぞれの肩書がある。

 考えてみれば当たり前なのだが、人が社会を見る視点というものはこんなにも多様なのかと思うほど、様々な視点が沖縄の上で交錯している。思えば「多様性」という言葉ほど曖昧に、それっぽく流通している言葉もないだろう。とすれば本書が試みたのは、「多様性」という言葉を、あくまで顔と名前の分かる実体の中へと押し戻すことだったのかもしれない。

 

 決してエクストリームな人選ではないし、過剰な語りもない。が、チャンプルーとか、ゆいまーるとか、大きな言葉で沖縄を語ってしまうときにこぼれ落ちてしまうものが、ここには確かに並んでいるように思う。

 ジャン松元の写真にしてもそうだ。海や空の青や、生い茂る緑、そこに刺さる赤、あるいは祭りの熱気など、沖縄にとって「名刺代わりの一枚」のような写真が並ぶ一方、時代が過ぎ去った後の打ち捨てられた町角が、単純なノスタルジアを拒絶しながらただそこに佇んでいたりする。そして終盤、見開きで並んだ米兵、特にそのうち一人からの予期せぬ視線は読者を試すようだ。

 

 こういう言い方はもはや書評とは呼ばないだろうが、とにかくいろいろな人が沖縄に関わり、生きている、ということが常温で伝わってくる一冊である。

 

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著者:藤井誠二(文)、ジャン松元(写真)
出版社:琉球新報社
初版刊行日:2022年1月1日

 

大江健三郎『沖縄ノート』書評|この「完全な葛藤」の先には何があるのか

 確かにこれは、本土の人間が沖縄の人々に示す態度として、一つの「倫理的正解」ではあるのだろう。沖縄へのコミットメントを深めれば深めるほど、むしろ強烈に感じられるようになっていく沖縄からの「拒絶」の感覚。それを内面化し、絶えず自らを責め、問い、あるいは嘲笑しながら生きることで、著者は沖縄について語ることを自らに許している。

 この感覚は分かるつもりだ、などと書くのはあまりに僭越だろう。だが、本書で多用される「恥」という言葉に私は私なりに心当たりがあるし、このブログに書き連ねてきた文章の中にそれは滲み出ているかも知れない。だからこそ、同時にこうも思う。私たち本土の人間は、本書のように「完全な葛藤」に沈み、「恥の刻印」とともに生きることを求められているのだろうか?

 

 まるで大田昌秀による「醜い日本人」という批難を受けて書かれているようにも思える本書は、醜い日本人の一人として、「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」という永遠の堂々巡りについての本である。

 自分の沖縄に対する態度を取りだす。するとそれと同期して、最もシビアで、挑発的で、露悪的なまでの自己批判の声が立ち上がる。著者はそこでがんじがらめになるが、自ら問い、自ら答え、また自ら問い直す中で、のたうち回るようにして少しずつ進んでいく。その執念は圧倒的である。

 が、一見厳しく抑制され、自己破壊的なようでいて、実はそれなりに湿っぽく、ドラマティックですらある文体には、ナルシシズムを感じないではない。「ノート」と銘打ち書きかけのように終わっているが、この「完全な葛藤」は、その完全さゆえにそれ自体でむしろ「完結」してしまっていると思う。

 

 池澤夏樹のように、これを「贖罪のポーズ」と呼ぶほどの度胸や資格を私は持ち合わせていない。だが、「完全な葛藤」という言葉に批判のトーンを読み取られてもやむを得ないと思う。無論、それが政治的に利用される可能性を含んだ表現であることには警戒が必要だが。

 いずれにせよ、仮に私が「理解ある本土の人」として沖縄の人々に許してもらったところで、それはいかなる問題の解決にも寄与しないだろう。そう思う時、岸政彦先生の件のインタビューにあった「ひとりの日本人として沖縄にどう向き合うか、いくら考えても何も変わらない」という言葉、その重みを改めて反芻するのである。

 

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著者:大江健三郎
出版社:岩波書店岩波新書
初版刊行日:1970年9月21日

【復帰50年】『ちむどんどん』はこのまま、復帰前後の沖縄を無色透明に描き続けるのだろうか

 唐突な記録映像の挿入によって、それは描かれた。いや、あれは「描かれた」とすら表現し得ない暴挙かもしれない。「戦争によって失われた領土を、平和のうちに外交交渉で回復したことは、史上きわめて稀なこと」と自負してやまない政府高官らの万歳三唱。50年前、1972年5月の沖縄返還である。同じ日の那覇で、沖縄県知事が「必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえないことも事実であります」と述べたことなど、このドラマの世界における沖縄とはおよそ無関係のように思える。

 

 別にその編集センスを意地悪く追及するだけの理由はないのかもしれない。フィクションとしてのドラマを政治的にだけ批判しても仕方がない、そう考える人もいるだろう。そもそも、ついこの間まで単なる観光客であった私にこのような批判を行う権利はないのだろうし、実際、復帰がどうなろうと自分たちの生活には関係ない、と考えていた人たちだっていたのかもしれない。

 というか、このドラマを制作している人々にとって、沖縄返還はすでに年表に書き込まれた単なる歴史的行事なのかもしれず、だから何の悪意も含意もなく、ただそのように描いただけなのかもしれない。だがそれは、結果として復帰の片面だけを描いたことにほかならず、昨今巷で演出されようとしている沖縄の本土復帰の「お祝いムード」に水を差さないための政治的配慮として受け取られたとしても文句が言えないのではないか。

 

 今回の「復帰」の描写によって分かったことがある。少なくともこの『ちむどんどん』というドラマにとっての沖縄とは、要するに舞台装置であり、背景なのである。自分はそう受け取った。

 いやそれでいいのだと、フィクションに政治を持ち込むなと、あなたは言うだろうか。であれば私は、政治を真正面から無作法に持ち込んだ上で、むしろ物語を動かしていくダイナミズムに利用してこそのフィクションだろうと言いたくなる。要するに私が言いたいのは、フィクション「だからこそ」どのようにも描写できるはずの出来事を、どうしてこうも物語と大きく切り離して描くのだろうか、ということである。

 

 ヒロインが属する比嘉家を見舞う困難の数々は、当時の沖縄に照らして社会的・構造的に合理的に説明可能なものというよりも、あくまで個人的なもの、偶然的なものとして準備される。父親は「たまたま」心臓発作により急死し、長男は「たまたま」現れた詐欺師に一家の全財産を渡してしまう、だからこそそこを突破していくきっかけもどこまでも個人的で、偶然的なことでしかあり得ない。

 そこに残るのは結局、「舞台が沖縄でなくてもよかったであろう、個人的な困難を個人的な努力で克服し、沖縄の貧しい一家が幸せを追求していく」という、非常に小さな回路で回る小さな物語でしかない。ある意味では題材の宝庫でもあるはずの「復帰前後の沖縄」を舞台にしているにもかかわらず、である。結果、比嘉家には、厳しい状況でも家族で助け合って幸せに生きる、というイメージが軽薄なほど簡単に託されてはいないだろうか。ここまで来れば、ゆいまーるの精神という言葉まであと一歩だ。

 

 私は、ドラマの企画が発表された昨年、ざわめくツイッターのタイムライン上にこんなことを書き込んでいる。

 

 

 ここに「もちろん」と書いたのは言うまでもなく牽制であるが、結果、「それ」は描かれていない。もちろん、「今のところは」ということだが、さしたる理由もなく、復帰の日・5月15日をヒロインの東京への旅立ちの日に重複設定し、このまま「単にヒロインの出身地が沖縄であるだけのいち上京モノ」へと移行していくかに見える『ちむどんどん』からは、「それ」がいつかはきちんと描かれるのだろうと期待することすら難しく思わせるような、割り切りにも似た空気がすでに漂っているように思えてならない。

 

 なるほど、そういった沖縄的題材をドラマの仕掛けに「使わないこと」こそが、逆に沖縄に対する誠意なのだと言ってみることはできるだろう。

 あるいは、「朝ドラ・コード」とでも呼ぶべき自主規制のルールでも存在するかのように、教員である長女も含めた登場人物たちが沖縄の復帰について一切話題にしない不自然さが不気味である一方、朝のお茶の間で許される範囲でいろいろなものに配慮しながら頑張っていると擁護することも完全に不可能とまでは言えず、事実、サトウキビ畑のシーンでは二度も米軍機のものと思しき爆音を響かせたではないかと、言ってみることはできるだろう。

 

 しかし繰り返すが、1964年の沖縄で、ヒロインとその家族たちを見舞う貧困(借金苦)は、あくまで父親の急死による「個人的なもの」であり、借金に沈みかけた一家が頼るのは、東京の遠い親戚ではなく、「家族の助け合い」や「幸せになるという決意」なのだが、もっとも苦しんだであろうその後の7年を一家がどう乗り切ったのかは一切描かれていない。

 要するにここでの貧困とは、「朝ドラ・コード」の範囲で安全に表現される困難の象徴であり、手軽に苦労を生み出すための無色透明な仕掛けであり、逆に言えば決して政治的なものであってはならないのである。その安全で無色透明な困難により引き立てられる一家の純粋さは、やはり安全にして無色透明であり(ヒューマニズム!)、まあ朝ドラならこんなものかと自らを虚しく慰めるほかない。

 

 いや、この際だからはっきり言おう。『ちむどんどん』は、少なくとも復帰50年のタイミングで放送されるべきドラマではなかった。

 結局のところ、このドラマは、本土で平穏のうちに暮らす人びとが、意識的であれ無意識的であれ、というか無意識でいられるほど徹底的に管理された構造のあまりにも特権的な立ち位置から、沖縄のたどってきた歴史や、今なお押し付けられている数々の問題について、忘れたまま、あるいは知らないことすら知らないでいることを許されたまま、自らが享受している平穏をただの少しも差し出すことなく消費可能な代物でしかない。そのことをただただ残念に思う。

 

【参考文献】

大田昌秀『新版 醜い日本人』書評|日本にとって沖縄とは何か - 1000字書評ブログ “Trash and No Star”

阿波根昌鴻『米軍と農民』『命こそ宝』書評|沖縄からは「安保」がよく見える - 1000字書評ブログ “Trash and No Star”

中野好夫・新崎盛暉『沖縄戦後史』書評|戦後沖縄の揺らぎに耳をすます - 1000字書評ブログ “Trash and No Star”

新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』書評|海を受け取ってしまったあとに(1) - 1000字書評ブログ “Trash and No Star”

目取真俊『沖縄「戦後」ゼロ年 』『ヤンバルの深き森と海より』書評|海を受け取ってしまったあとに(12・13) - 1000字書評ブログ “Trash and No Star”

 

【ドラマ感想の追記】

【追記】『ちむどんどん』と沖縄戦――このドラマが描けたものと、描けなかったもの - 1000字書評ブログ “Trash and No Star”