Trash and No Star

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ウルリヒ・ヘルベルト『第三帝国 ある独裁の歴史』書評|戦争こそナチズムの本質である

 ナチス独裁の歴史を描く、その時代の切り取り方がまずは興味深い一冊である。およそ250ページのうち、ナチスによる権力掌握の過程が、わずか77ページ(3割程度)にとどまっているのだ。

 『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』の巻末ブックガイドで「最初に読むべき文献」と紹介されていた石田勇治著『ヒトラーとナチ・ドイツ』が、およそ350ページのうち187ページ(5割超)も割いていたのとは対照的である。

 

 もっとも、このようなページ配分は意図的なもので、「アンバランスは覚悟の上」だという。

 なるほど、「どのような19世紀末以降の長期にわたる状況の進展がナチ期に影響を及ぼしたのか、それは第一次世界大戦世界恐慌という破滅的な影響とどのように結びついていたのか」という、ヒトラー独裁政権誕生前夜の社会状況には十分な目配せをしつつも、ナチ・ドイツによるヨーロッパの占領支配や、それに伴うヨーロッパ・ユダヤ人の殺戮を、ヨーロッパ史、ひいては世界史の一部として位置付ける包括的な視点こそを、本書はより重視しているのだ。

 

 訳者によれば、著者のウルリヒ・ヘルベルトは、ドイツにおけるナチズム研究の第一人者。原書は、ドイツのC・H・ベック社が刊行している、日本で言えば新書のような「ヴィッセン叢書」シリーズの一冊だというが、内容としては、同じ著者による2014年の大著『20世紀ドイツの歴史』に依拠したものだという。

 つまり、そこからの意図的な圧縮、意図的な編集の結果が、この「アンバランスさ」ということだ。ヒトラーによる独裁政権がどのように生じ、制度的に許容されてしまったのか、という原因分析の視点よりも、それが実際に何を破壊したのか、という結果への視点がまずは重視された結果なのではないかと思う。

 実際、「暴力の爆発」と題された第10章で、著者は「戦争はナチズムのもっとも本質的な要素であった」と喝破している。本書をたった一行で要約せよと言われれば、私は迷うことなくこの一文を選ぶだろう。ナチスは財政的にも戦争を前提とした体制だったし、精神病患者やユダヤ人といった、長年にわたって「中心的問題とされてきたものを、一挙に解決する好機」と判断したからこそ、それは決行されたのだ。

 

 同種の概説書をすでに一冊紹介しており、また今後も何冊かは続くだろうから、通史的なものの要約は省略しよう。

 先に挙げた『ヒトラーとナチ・ドイツ』のレビューを読んでいただければ、私のように世界史に疎い人でもおおよその流れは理解いただけると思うし、大きく言えば、本書の内容もそこから逸脱するものではない。だからここでは差し当たり、同書と比べて特徴的だと思った内容を補足的に紹介するにとどめたい。それは、「ヒトラーを中心に据えなくともここまでは言える」という事例報告にもなるのではないか。

 

 それではまず、第一次世界大戦前の、社会の「気分」のようなものについて。

 当時のドイツは、アメリカに並ぶ超大国として、他のヨーロッパ諸国が経験しないほどの急速な近代化、工業化を経験したことを著者は指摘している。その急速な変化の中で「今までの生活状況が失われる」経験は、その不安の裏返しとして、「確固たる共同体」への帰属意識を強めたのではないかと。それが反ユダヤ主義という陰謀論や、民族共同体という理想へと結びついていく。

 やがて第一次世界大戦が始まると、それはますます過激な、あるいは誇大なものになっていった。見逃せないのは、大学教授などの知識人層も同様で、この戦争によって我らが偉大なるドイツが「フランス革命の有害な影響」から解放されるのであり、「近代をめぐるもう一つのコンセプト」、すなわち「民主主義と自由主義ではなく、軍隊と組織」こそが「正しい回答」なのだという認識が本気で醸成されていったことである。

 

 だが、周知のように、ドイツを待っていたのは未曾有の敗北と、致死量の経済制裁であった。ここで終わっていれば世界はまた違う未来を辿ったかもしれないが、それは「報復思考」や「ナショナリズムの沸騰」を招く結果にもなった。世界恐慌もあり、ドイツ社会は大きな混乱に陥る。

 大国ドイツのそうした「うまくいかなさ」の責任を負わされたのが、当時「ヨーロッパでもっとも成功したマイノリティ」であったユダヤ人である。すべてはユダヤ人の陰謀だと。彼らは、いわばドイツにおける近代生活の矛盾を説明する「マスターキー」、つまりはスケープゴートとして利用されたのである。

 ここで強調しておきたいのは、ヒトラーがいようがいまいが、このような反近代の「回答」としての反ユダヤ主義は、ドイツで一定の支持を集めていた、ということである。そこには、やはり避けられなかった何かがあったのかもしれない。

 だが同時に、こうも指摘しなければならないだろう。その好機を見逃さなかったのがヒトラーであり、極右の泡沫政党に過ぎなかったナチ党であったのだ、と。

 

 ナチ党の権力機構についても、大きな示唆がある。

 映画『関心領域』のレビューに見出しとして「ナチス官僚たちの熾烈な出世レース」と書いたのは、もっぱら劇中の描写の解釈としてそうなったわけだが、本書の分析を踏まえると、実はそれほど悪くない評だったのではないかと思う。

 実際、ナチ党が権力を独占した際、社会統治の作用のみならず、新国家における行政組織においても「利害調整のための制度やメカニズム」は廃止されることとなったわけだが、では何がその勾配を決したかといえば、「ヒトラーへの近しさ」だったのだ。

 当然、そこではヒトラーに取り入ろうとする連中が抜け目なく跋扈するわけだが、そうした極めて「凡庸な」権力闘争の中で、やがてホロコーストへと帰結する「急進さを互いに競い合うというダイナミズム」は確立されていったのだろう。

 ここまで来れば、「ごく普通の人間でも、自ら考えることを停止し、上から言われるがまま命令に従えば、巨大な悪を成し遂げてしまうことがある」といった、〈悪の凡庸さ〉の通俗的解釈は、ナチ党員個々人の主体性やある種の能力を過小評価していることがわかるだろう。むしろ、彼らはありとあらゆるリソースをこの権力闘争に投じていたのである。

 

 ここでもう一度、あの決定的な一文を引いておこう。「戦争はナチズムのもっとも本質的な要素であった」と。そう、第一次世界大戦の敗北を清算し、東方へ「生存圏」を拡大すること。そして、ドイツを再び偉大にすること。それらの夢は、要するに戦争に勝つことによって初めて実現するものばかりであった。

 しかも、彼らの理屈では、こうした目標を達成するためにこそユダヤ人の追放が手段として必要だったのだが、実際は、第二次世界大戦が進めば進むほど、つまりはドイツが目標を達成し領土を広げれば広げるほど、ユダヤ人の人口が増えるという悪循環が生じていたのだ。手段と目的が逆転してしまったのである。

 結果、コスト面からも迅速な「最終的解決」が求められ、それが「急進さを互いに競い合うというダイナミズム」の中で、最終的にはホロコーストに至るまで先鋭化していったのだ。

 

 加えて、第二次世界大戦周辺の描写に7割近くを割いた本書が詳細に描いていくのは、ホロコーストに限らない、ナチス・ドイツがなした戦時下における殺戮の数々である。

 例えば、戦争捕虜の奴隷化(強制労働)、人口衛生学に基づく精神病患者のガス殺、ソ連兵捕虜の大量餓死。そして、ユダヤ人に対する暴力の「野蛮化、荒廃、自制心喪失」は、行き当たりばったりの大量銃殺から絶滅収容所へと無制限にエスカレートし、少なくとも570万人の殺害につながっていく。この数を前に、いったいどんなことが言えるだろう。

 しかもその一方には、「開戦後、ほとんどのドイツ人にとって主な関心事は自分の暮らしであった」という世界が依然として広がっていたのだ。さらに言うなら、どれほど戦況が悪化しようが、彼らは国内の抵抗勢力によるヒトラーの暗殺など望んでいなかったという。「なぜなら彼らは、総統だけが現状を乗り切ることができ、彼の死は結果としてカオスと内戦をもたらすだろうと確信しているからである」。

 

 もう何も言うことはない。第二次世界大戦でのヨーロッパにおける死者数は、全体で5000万人を超えるという。この人数をどう考えたらいいのか、私にはまったく見当もつかないのだ。

 ただ、これだけは言える。近代史、いや人類史の最果てと呼ぶほかない、破壊に次ぐ破壊の先には、何もなかったのだと。「第二次世界大戦中のドイツによる絶滅政策の全体像を、正確に見通すことは依然として不可能である」という言葉があまりにも、あまりにも重い。

 

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著者:ウルリヒ・ヘルベルト
訳者: 小野寺 拓也
出版社:KADOKAWA[角川新書]
初版刊行日:2021年2月10日