
村上春樹の長編を、これほど短期間でまとめて読むつもりは全くなかった。自分にとって、少なくとも「今の」自分にとって、村上春樹はもうそのような作家ではない、、、はずだった。
だが、何年か前から、佐々木マキ氏によるあのクールな表紙が目に入る度に「いつか暇になったら読み返そう」と思っていたこの『ダンス・ダンス・ダンス』が、先日読み終えた『羊をめぐる冒険』の、というかそれも含む「初期三部作」の続編であることを知ってしまうと、もう読まないわけにはいかなかったのだ(以前読んだ時には、作品ごとの順番なんか全く意識していなかった)。
他に読みたい本、また「読むべき本」とさえ言えるものが何冊だってあるにもかかわらず、それを読まないではいられなかった。それが少なくとも、この頃の村上春樹作品だろうと思う。
そして一度読み始めるとなす術もなくただ貪り読み、三日で読み終えてしまった。再読であるにもかかわらず、だ。ごく大雑把に言えば、ここには「それまでの村上春樹」に対する反省があり、総括があり、それと同時に、新たな拡張が試みられてもいる。
結論だけを先に言っておくなら、私はその変化、特に後者の追加要素を歓迎する立場ではない。それでも、著者はこのようにするしかなかったのだと思う。そう、村上春樹はこれを書かずにはいられなかった。ただ書くべくして書いた。それは最初から「決まっていた」のだ。
もちろん、『羊をめぐる冒険』からこの『ダンス・ダンス・ダンス』までの間には、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)と『ノルウェイの森』(1987年)という重要作が二つも挟まっているので、これらの作品を抜きに、単純な連続や断絶としては語れない。むしろ、この二作との連続性や断絶を踏まえてこそ、この『ダンス・ダンス・ダンス』は初めて理解できる作品かもしれない。
それでもそうした性急さを承知で言えば、これはサスペンスやミステリーの分野に属する要素だと思うが、プロットは『羊をめぐる冒険』よりもさらに練り込まれ、「続きが気になるので読んでしまう」という凡庸と言えばあまりにも凡庸な、ある種の連載小説のような読ませ方がさらに徹底されている、ということは言えると思う。
そう、これは本来、物語の構造と、そこに託された主題(そう、なんとこの作品にはテーマがあるのだ)との連動性でしか語れないのだが、ひとまず前回のレビューを踏まえて言うなら、ハードボイルド的なお約束やそのアレンジ、あるいは「消えた女」や「不吉に暗示される六つの死」といった、謎かけやサスペンスの緊張感で読者を牽引する力は格段に磨かれている。
さらに、怪奇現象めいたマジカルな描写を一気に増やし、しかもそれが主人公である「僕」の精神世界と実は繋がっていて、その中で「誰かを本気で愛する」という実存、あるいは「人生へのコミットメント」のようなものを回復していく、という仕掛けがそこに加わっているため、全体のボリュームは長大化している。
何かしら表現すべきことがあり、そのために文章が流れている。そう、村上春樹の小説は、「主題」を語るための「物語」をついに必要としたのだ。つまり、『羊をめぐる冒険』ではまだおぼろげなスケッチでしかなかった「語るべきもの」が、ここでは1980年代という同時代性の中で初めて語られているのである。
あんたは自分が何を求めているのかがわからない。あんたは見失い、見失われている。何処かに行こうとしても、何処に行くべきかがわからない。あんたはいろんなものを失った。いろんな繋ぎ目を解いてしまった。でもそれに代わるものがみつけられずにいる。
語るべきもの。
うまく要約できるかわからないが、それはひとまず、「1980年代的な諦観」とともにある。
善悪の境界が曖昧になった時代。実体とイメージの境界が曖昧になり、むしろその差をマスメディアを通じて増幅させることで法外な金儲けが可能となった時代。誰もが、自分が何を求めているかがわからなくなった時代。誰もがただ消費者であり、生産者でない時代。誰もが人を本気では愛さなくなった時代。個人の意思や行動よりも、もっともっと巨大な「システム」が社会を回している時代。本来であれば、善悪を区別し、システムを統御することで社会を統治するはずの権力もまたその「システム」の一部に組み込まれ、入れ子のようになってしまっている時代。
1980年代が本当にそうした時代だったのかは、私の知るところではない。だが、少なくとも本書における「僕」や、その友人らにとってはそのような時代として認識されている。
これまでの村上春樹作品であれば、そのような時代性からは距離を置いた、すかした「僕」のスタイリッシュな感傷、みたいなものが描かれたことだろう。だが繰り返しになるが、ここでの「僕」はそうではない。もう若者とは呼べなくなった34歳という年齢の問題もあるだろうが、「だからこそ、主体性を取り戻さなくては」という抵抗に挑んでいるのだ。
もちろん、それはいささか時代遅れで、お世辞にもトレンディな試みではない。それでも、ここでの「僕」は行動を起こそうとする。相変わらずそれが、本人にしかわからない啓示のようなものに動機付けられたものであっても。
まず大きなところを言うなら、ここに「これまでの村上春樹作品に対する反省と総括」のとっかかりがある。ただ流されるのではなく、行動し、主体性を取り戻し、誰かを本気で愛すること。少なくとも愛そうとすること。失敗したことがあるなら、それをやり直すこと。失ったものがあるなら、それを取り戻すこと。あるいは取り戻そうとすること。年齢相応、という表現が出てくるが、まさに34歳になった「僕」に相応しい総括の場がこのように準備されているのである。
時代遅れのハードボイルド的倫理も健在で、親しい友人のためなら、陰険な警察官にどつき回されたくらいで口を割るわけにはいかないし、留置所にぶち込まれたくらいで音を上げてはいられないのだ。それがヒップということであり、ハードボイルドということなのだから。
しかし、当たり前と言えば当たり前だが、物語が進むにつれて、こうしたある種の勇ましさは、結局のところ和らいでいく。あるいは去勢されていく、と言った方が正しいかも知れないが。
どういうことか。身も蓋もない話だが、私たちが生きるこの現実も時にそうであるように、「いかに主体的に努力したところで、どうにもならない時にはどうにもならない」のである。この『ダンス・ダンス・ダンス』が描くのは、ある意味ではそうしたリアリズムである。作中でも言及される「カフカ的不条理」とまではいかなくとも、どうにもならない時はどうにもならないのだ。
では、その時に「僕」はどうするか。ここまでの勇ましい意気込みが途端に霧散してしまいそうだが、ただ「待つ」のである。
実際、前作『羊をめぐる冒険』で恋人のような関係になったにもかかわらず、物語のクライマックスで一言もなく行方をくらませてしまった女の子を探し出そうとする、というのが本作の簡単なスジなのだが、手詰まりになった「僕」は多くの場合、「ただ待っている」のである。事態の進展がないのなら、待つ。ことの成り行きを見守る。
そう、消極的行動としての「待つこと」の、主体的選択。それに伴う受動的前進。そのクライマックスがハワイでのバカンス(!)なのだが、とにかく、何かが起こるまで主体的に待つことが物語の後半では積極的に選択されている。いささか倒錯してはいるが、これこそが、本作が提示する村上春樹的「僕」の新たな行動哲学だ。
果たしてそれが、村上春樹がこの時代(1980年代)に向けて語りかけたかったものなのかは分からない。言うまでもなく、この物語における「僕」と、著者である村上春樹には何の従属関係もないからだ。
それでも、「僕」の無力さというより、「個人の意思ではどうにもならなさ」に著者がこだわっているのは事実だろう。気合だけではどうにもならない。全てがシステム化された複雑な社会で、いちいち権力に楯突いてもしょうがない。そこには、引き伸ばされた袋小路と、約束された徒労しかない。だから「僕」はただ待つのだと。それがここでは同じコインの裏と表になっている。
もしくは、スジだけをまとめてしまうならこうだ。「黒幕」なんていないんだと。あるのは「巨大なシステムとしての悪」だけであり、そこでは意味や正義など何の役にも立たず、とにかく「踊る」しかないのだと。『ダンス・ダンス・ダンス』はそういう物語である。もう革命の時代ではないのだ。
1969年にはまだ世界は単純だった。機動隊員に石を投げるというだけのことで、ある場合には人は自己表明を果たすことができた。それなりに良い時代だった。ソフィスティケートされた哲学のもとで、いったい誰が警官に石を投げるだろう?
もちろん、「待つこと」がいかに新しく演出されようとも、傍から見れば「僕」が何かをしているとは言い難いだろう。実際のところ、それでも物語が順調に――物事が動くタイミングも、停滞するタイミングも完璧に――進んでいくとすれば、超能力的なインスピレーションを持つ女が気まぐれにもたらすヒントに「僕」が導かれているに過ぎない。ある意味、そこは『羊をめぐる冒険』から何ひとつ前進していない。
補助輪付きの、過度な停滞もなく過度な加速もない進行。物語は任意のタイミングでスタックし、また任意のタイミングで打開される。それは批判的に言えば、自作自演というか、要するにご都合主義以外の何物でもないわけだが、最大限擁護して「僕」の立場から見れば、もちろん、これはこれで、かつてと全く同じことを表現しているのではない。
そう、できるだけのことは試してみたのだ。それでも、やはり袋小路は続いていたのだ。「分かりきった諦念」から、やっぱりダメなんだという「確かめられた諦念」へ、少なくとも「僕」は移動している。それで何かが「重く、深く」描かれたことになるのかはわからない。だが、結果は同じでも、この迂回には文学的な意味があるように思う。そこはソフトに肯定しておきたい。
と、ここまでを整理した上で、冒頭で述べた「新たな拡張」の話題の方に移ろう。あまり気乗りのしない話だが、何とかやっていこうと思う。
これはいちいち指摘するまでもないことだが、「消えた女」だの「予言する女」だの「電話」だの「精神的沈潜」だの、そういった村上春樹的主題群に、本作あたりから新たな仲間入りを果たしたものがいくつかある。特に本作で言えば、「勃起」と「射精」、それも――やはり、と言うべきか――主体的な射精と受動的な射精の両方だ。
それは「僕」の主体性をめぐる冒険の象徴になっており、主体性を取り戻すと主体的な射精が実現する仕掛けになっている。主体性を欠いた射精をしているうちは妻も恋人も去ってしまうのだが、冒険が進むにつれて、「僕」は様々な「権力」と仲良くなり、不本意ながらも、お近づきの印に女を買ってもらうことになるのだ。
「僕」はそこで、不本意ながら勃起し、だが遠慮なく射精する。「買春」が本作のメイン・テーマの一つだと言ってもいいくらいだが、まあ、それが「踊る」ということでもあるのだろう。その繰り返しの中でいつしか主体性を取り戻した「僕」の能動的射精においては、女は「すごい」といってただ官能に浸ることになる。指摘するのも憚られるような、独りよがりな連動性であるが、流れとしてはそうなっている。
まあ、ハッキリ言ってそれはどうでもよい。そういう夢が見たいのなら見ればよい。それでもなぜ、この出口のない話を取り上げたのかと言えば、様々な観点から酷評しうるこれらの新たな主題群が、まず何よりも、村上春樹的主題群の倫理として致命的に重要だからである。
思い出してみよう。『風の歌を聴け』が描いた時代において、言い換えるならまだ「僕」と「鼠」が友だちだったあの頃において、「鼠」が書く小説の優れた点として、「僕」はセックス・シーンの無いことと、一人も人が死なないことを挙げていたではないか。
もちろん、繰り返しになるが、この物語における「僕」と、著者である村上春樹には何の従属関係もない。だが、それでもあえて指摘するなら、著者自身が多少なりとも守っていたようにも思えるそうした美学は、本作では何重にも破られてしまっているのだ。
ボブ・ディランを聴きながら経費でゴージャスな女の子を抱くというのは何だか変なものだった。なつかしの1960年代にはこんなこと考えられなかった。
そう、本作『ダンス・ダンス・ダンス』では、人が何人か死んで、たくさんのセックスが行われる。何もかもが変わってしまったのだ。そしてこの、村上春樹の新たな作品世界をめぐって読者が抱くであろう「何もかもが変わってしまった」感覚は、「僕」が1980年代という時代に対して感じている疎外感のようなものと連動している。
だから本作は、「僕」の現実的旧友として登場する五反田君と同じように、著者にとっての徹底的な自己破壊がテーマなのだろうと思う。これまで築いてきた美学の徹底的な破棄。スタート地点からのやり直し。それがどこまで意図的になされたものかはよくわからないが、ノーベル文学賞みたいなものとは無縁な、ずいぶんと不思議な方向に進んだものだと思う。
あるいは著者は、本質的には何も変わっておらず、物語の説得性よりも、ただ書きたくて書いてしまったのかもしれない。というか、今まさに書き、書かれつつある文体の持続こそが、どこまでも優先された結果に過ぎないのかもしれない。いったんそう考えると、そんな気もしてくるから不思議だ。
きっと我々は、村上春樹のことをあれこれと余計に考え過ぎなのだろう。おそらく著者はこのようにするしかなかったし、これを書かずにはいられなかった。処女作同様、書きたいから書いたし、どこかでそれは「決まっていた」のだ。あまりにも滑らかな、すべてがひと息で書かれたような文体や物語の流れはそう思わせるほどの力がある。
ここまで書いたことがすべて無駄になってしまいそうだが、やむを得ない。今日のところはいったんそれを結論にしておこうと思う。自らを突き動かす「流れ」に従い、身を委ねることこそが、著者にとっての「踊る」ということだったかもしれないからだ。
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著者:村上春樹
出版社:講談社〔講談社文庫〕
初版刊行日:2004年10月15日