Trash and No Star

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東浩紀・大山顕『ショッピングモールから考える』書評|論じるに値しないものこそ

 『美術手帖』ウェブ版の編集長、橋爪勇介氏のツイートが炎上した。削除前の投稿も修正後の投稿も読んだが、別にそれ自体はなんてことのない、お盆の帰省にあわせて個人的な感傷を書き留めたものであり、「すっかり東京に染まってしまった自分」に対する「かつてイオンモールしかない場所で美術と無縁で生きていた自分」からの視線を、一枚の美しい写真とともに表現したものに過ぎない。

 ネット的には「田舎ディスんな」みたいな反応が多かったようだが、少なくとも文化・芸術という分野において、東京に比べれば地方が相対的な貧困状態にあるのは否定しがたい事実だろう。自分も、地方のイタさも東京のすごさも多少はわかっているつもりだから、そこはいちいち反応しない。というか、そんなことはわざわざ言うまでもないほど当たり前の、あまりにもわかりきったことなのであり、それがベタに反復されたことに炎上へのフックがあったのではないか。

 だから、今回のツイートに露呈していたのは、地方のイタさというよりむしろ「東京のイタさ」だったのであり、より正確に言えば「上京のイタさ」だったのだと思う。

 

 もちろん、特に名指しされた「美術」という分野において、具体的な反証がなされるのであれば、それはそれで意味があることだとは思う。

 だが、自分の違和感はそれでは解消しない。私が何よりも気になったのは、件のツイートの、批評的な文脈意識の希薄さである。そこには、「ショッピングモールが象徴する地方の荒廃」という既存のフレームに対する抵抗感のようなものや、かつてそこに加えられたはずの言説に対する目配せのようなものがまったく感じられなかった。あるのはただ、「東京=ギョーカイの中心」、「地方=荒廃したショッピングモール」という驚くほどプリミティブな二項対立だったのだ。

 もちろん、個人的なツイートにいちいち批評性まで求められてはやってられないだろうが、端的にはこういうことだ。2025年の今、地方のショッピングモールをあえて「文化・芸術の相対的貧困の象徴」として取り上げることに何か批評的な意味があるのか? 現代アート以降の美術批評が抱える広大な守備範囲を前提とするならば、地方のイオンにも、お決まりの荒廃象徴性以上のものを見い出そうとするマインドがあってもいいような気がしてしまったのだ。

 

 そこで私が思い出したのは、東浩紀が編集した『思想地図β』vol.1である。それこそお盆の帰省で実家から持ってこようと思って探したのだが、残念ながら残っていなかった。当時かなり背伸びをして読んでいた感じだったから、きっと何かの拍子に売ってしまったのだろう(本はいつ必要になるか、本当にわからない)。

 その代わり、と言っては何だが、手元にあった本書を読み直した次第である。当時のショッピングモール論が残した最良の成果ではないかもしれないが、今でも多くの気づきをもたらしてくれる一冊である。寝っ転がりながら読めて、つい付箋か赤ペンを取りたくなるような本は、案外貴重だ。何より、心意気がよい。

 

 東は、新書版のあとがきにこう書いている。

 

世間で「論じるに値しない」と思われているものにこそ、新たな論点を見い出し、語り始めること。それこそが哲学(知への愛)の原点であり、本書はその点で、「放談」であるがゆえに、逆にきわめて哲学的な本だと言える。

 

 愛すべき逆張りの精神ではないだろうか。東らのこうした問いかけから10年後の未来で、少なくともショッピングモールを地方の文化的荒廃の象徴として「のみ」語ることはほとんど不可能ではないか、と思う。

 そもそも、東の問題意識自体が、「ショッピングモール=商店街の敵=下流化の象徴」という見立てへの反感から来ている。反感が言い過ぎならば、違和感、ということになるだろうが、いずれにしてもそうした断定をいったん保留し、第三の道を探るのが、当時の『思想地図β』vol.1の、あるいは当初「ゲンロン叢書」として企画・編集されたという本書の試みである。

 

 もっともこの『ショッピングモールから考える』は、「東浩紀」という名前から想定しがちな、高度な概念や専門用語が飛び交うような内容ではなく、全体が「工場萌え」で知られる大山顕氏との対談であり、ショッピングモールへの素朴な驚きと、フィジカルかつフェティッシュな関心から議論が始まっている。

 それは、例えば先が絶妙に見通せないくらいの緩やかな曲線のことであり、例えばシンボリックな吹き抜けのことであり、例えば大量のエスカレーターのことであり、例えば人工的な自然のことであり、それがいかに計算されたものであるかを確認するだけでもじゅうぶん面白く、話題は尽きない。

 そう、ショッピングモールとは、ただショッピングモールで時間を忘れることだけに集中できるように設計された極めて不自然な空間なのであり、それと同時に、その不自然さが感じられないように「不自然な自然さ」が演出されるよう設計されている空間でもあり、人間たちがゾンビになっても未練がましく通いたくなるような場所なのだ。

 

 また、こうしたディテールへの具体的な関心があるからこそ、「ショッピングモール的であること」の一般化への眼差しも開けてくるように思う。

 バリアフリーで、欲しいものはまあ買えて、意外と多目的で、環境的な摩擦係数が極限までゼロに近づけられていて、それでいて商業効率も最大化されている。そしてそれが、世界中で共通基盤を持ちながら同じ方向に進化しているのではないか、さらには他分野にも侵食し始めているのではない、というのが本書の見立てである。

 個人的にも、以前海外のショッピングモールを訪れた際、特に不自由なく「過ごせてしまった」ことをここで思い出した。本書が指摘するように、ショッピングモールは、あるいは「ショッピングモール的なもの」は、日々最適解に向かって進化を続けているのだろう。それは国境や、宗教や、文化をすでに超えてしまっているかもしれない。

 事実、駅ビルも、空港も、クルーズ旅行の客船も、あるいは公園でさえもが、いつの間にかモール的空間へと変貌を遂げつつある、というのはもっともな指摘である。加えて、その土台にディズニーに代表されるテーマパークの存在があるのではないか、というのはさらに想像力を刺激する話だ。まさに動物化であり、テーマパークの日常化である。

 

 人は、一方では良識ある市民として、巨大な消費社会の象徴みたいなショッピングモールを、できれば拒絶したいと思っている。思想的には、どうにかしてそこに抗いたいと思っている。が、いざそこで何年か過ごしてみると、もはや全く対抗できないほどスムーズに適応してしまっていることに気付くのだ。

 この時、「ショッピングモール的である」とは最終的に、どのようなことなのか。ひっくるめれば、やはり「新しい公共性」ということになるのだろう。

 つまり、いま公共性と言った時に掲げられがちな「誰も排除されない」とは、圧倒的なデカさ、圧倒的な規模によって否応なしに達成されてしまうものなのだと。合意形成よりも先に商業的な実践があり、思想的な抵抗よりも先に動物的な適応がある、ということ。そこでは正式な「公」が調達できないものを、民間資本が巨大な投資をすることで先に実現してしまうのだ。

 もちろん、そんな見立ては単純で、そこに何かを託そうとするのは楽観的すぎる、という批判があるかもしれない。だが、本書でも指摘されているバックヤードからの視線、つまりはある種の「後ろめたさ」を生真面目に内面化したところで、それでもこの欲望と順応の流れはもう止められないのではないか。人の無力さと、「論じるに値しないもの」のポテンシャル。その両方を痛感する一冊だ。

 

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著者:東浩紀大山顕
対談:石川初
出版社:幻冬舎幻冬舎新書
初版刊行日:2016年1月30日