Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽のレビューブログ。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

豊永浩平『月ぬ走いや、馬ぬ走い』書評|個人と歴史の絶え間ない遠近法のなかで

 何かものすごいものが眼前を走り抜けていった。それは月日だったかもしれないし、馬だったかもしれない。あるいは沖縄、だったのだろうか。分からない。とにかくそれは走り抜けていった。

 その消えゆく後ろ姿は、ひとまず『月ぬ走いや、馬ぬ走い』という仮初めの文学作品としてしか捉えようもないものなのだが、これがどのような文学賞にも相応しい決定的な作品であると同時に、どこか暫定的な内容であるようにも感じるのは、改行もなくびっしりと書き込まれた文字の塊、その怒涛が触れ、掘り起こし、あるいは抉っていく人々の語りが、そのディテールの厚さや情念で読み手を圧倒すると同時に、「これではない他の語り」の存在をも豊かに想像させるからだ。

 その「ここに書かれなかった語り」も含めた総体が、これでしかない『月ぬ走いや、馬ぬ走い』とともに走り抜けていくのである。

 

 重厚と疾走。断片と想像上の全体。そうした複層的な広がりを持つこの作品にとって、いわゆる物語というレベルであらすじを要約することに何か意味があるとも思えないのだが、かと言って語れもしない巨大な「沖縄」というものの話を始めるわけにもいかず、ひとまずはここに『月ぬ走いや、馬ぬ走い』として提示された蛍光イエローの本について、概要を紹介していこうと思う。

 

 本書は14の断片的な語りから構成されている。時代、性別、年齢、立場ともにさまざまである。

 この夏の「告白」に人生のすべてをかけている小学生の男女。まだ大人ではないがかと言ってもう子どもでもなく、若くして自分に与えられた人生のおおよそを理解し始めてしまう中学生の男女。未発達な身体を持て余し、互いを激しく傷つけあうことしかできない高校生の男女。沖縄戦で戦死、または終戦を迎えた日本兵沖縄戦で片足を失った元米兵。戦後の、あるいは占領下の混乱した沖縄をあらゆる手段で生き抜いた沖縄女性。ベトナム戦争時代の沖縄で、サイケデリック・ロックとヘロイン漬けになって生きる男娼の男。学生運動の先鋭化の中でかつての親友を失い、自らも逮捕されることになった沖縄男性。

 あえて各章の中心的な視点の担い手で分類するならこのような書き方になるだろうが、そこには「共有された一つの太い物語」というものはなく、モノローグの時系列すらバラバラなので、誰かの人生のある一時期の語りが、何の前触れも余韻もなく、代わる代わる挿入される構成になっている。

 唯一の改行も、語り手が変わる際の文間の処理として現れるのだが、そこでは文章が無理やり断ち切られるような転換が意図的になされており、時には血が滴り落ちるままに、人々の語りが手が切れる程の鋭い切断面をのぞかせている。

 

 その段落の飛ばし方、ないしつなげ方は本作の文学的実験とも言えようが、それらが僅かな文節を重ね合わせながら、テンポも微調整した上でDJのミックスのようにつながれていくとき、バラバラな語りが一つの巨大なうねりとなって別の運動が始まるのを誰もが感じるはずだ。

 純文学らしく、辞書を引かないと正確な意味、読みがわからない言葉も多々あり、自分としては序盤はテンポが上がらない感もあったのだが、上記のような切断と接続のリズムに身体が慣れ、乗ってくると、今度はグルーブが出てきて読むのをやめられなくなってしまう。圧倒的である。

 

 もちろん、それはただ天然の怒涛であるというよりも、例えば「ケンドリック」というミドルネームであったり、「菜嘉原」という名字であったり、沖縄戦で失われた片足であったり、赤いオートバイであったり、切断と接続の反復のなかで自然と浮かび上がる仕掛けの効能でもあるわけで、誰かの人生から剥ぎ取られたような語りの生々しい没入感を実現すると同時に、全体の設計も非常に練られていることが分かる。

 中でも、人々の手から手へと渡っていく象徴的な小道具として、戦死した日本兵が持っていた「恩賜の軍刀」と、谷川俊太郎らの詩画集『クレーの天使』が存在しており、本作は、この軍刀と詩画集が時空を超えて巡り合う物語とも言えるのだ。また、全体にどんよりと通底している暴力の気配は、「後頭部を殴打する」という行為のイメージによって連結されており、それは読者の視界を赤黒く染め上げながら、まさしくその後頭部を強打するように意識の覚醒を強いていくだろう。

 

 言うまでもなく、それらは単なる文学技法上の仕掛けというだけではなく、沖縄の人々が強いられてきた現実の痛みも多く反映しているのだろう。

 沖縄戦で、追い詰められた日本兵に赤ん坊を一方的に殺されたこと。占領下の混乱した沖縄で、生きるための手段を選んでいる余裕などなかったこと。戦後沖縄の社交街で、性という性が消費されまくっていたこと。沖縄という場所が、時代が変わっても常に戦争と隣り合わせだったこと。そこには常に支配と暴力があって、その対としての抑圧と痛みがあって、その延長線上に今があるということ。

 それは本来、このようなみすぼらしい要約で説明できるものではない。自分がそこで辛うじて口にできたのは、「みんなどうにかして死なずにすんだから、いまこうして生きている」という、極めて同義反復的なつぶやきだけだ。

 

 最後に、少しだけ本文から引用させていただきたい。

 ある語りのなかで、夜の渋滞を眺めながら、中学生の女の子が「きれいだけど正直グロかった」と述べる場面がある。「この車の一台一台にひとがいて、そしてひとはそのひとなりの人生があって、でもこうしてなにも知らずにすれ違う」光景が、巨大な無関心の群れのように見えたのだろうか。

 自分がここで思い出したのは、自分が一生出会うことのないであろう無数の人々が、紛れもなくこの眼前の社会で無数に暮らしている事実に圧倒されていた『君たちはどう生きるか』のコペル君なのだが、いずれにしても、ここは本作の構造や説話技法に自己言及するような内容にも私には読めた。

 

 大きな歴史のなかで、本当は誰もがどこかでつながっているのに、実際はそれを互いに知る由もなく、ただすれ違っているということ。そして、まったく何とも誰ともつながっていないように主観的には思える誰かの人生が、遠くから見ると紛れもなく大きな歴史に接続された一部であるということ。

 この個人と歴史の絶え間ない遠近法のなかで、過去からつながれる命もあれば、どこかで絶たれる命もある。その落差は暴力的ですらあるのだが、すでに述べたように、「恩賜の軍刀」と詩画集『クレーの天使』のめぐり逢いを描く物語でもある本書は、誰に気付かれるでもなく実現するその無言の邂逅によって、人と人の、あるいは長い歴史の交錯をある意味では無機質に、だが劇的に演出しているのだ。

 

 そう、それがたとえ事故のような、あるいは「小説みたいな」ものであったとしても、それが確かに交わってしまうことによって、少しだけ希望を感じさせるような、不思議なチルアウトへと物語を導くことに成功している。その説話技法において、題材と小道具と物語が巧みに連動した傑作である。それは少女の「正直グロかった」というつぶやきにどうにか抗いながら、情緒に頼らぬ感動へと読者を誘うだろう。

 

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著者:豊永浩平
出版社:講談社
初版刊行日:2024年7月9日