Trash and No Star

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植本一子『働けECD わたしの育児混沌記』書評|「たまにはひとりになりたい自分」を認めたあとに

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 今からこの本を読もうとするとき、私たちはすでに二つの結末を知っている。つまり、2011年3月11日に何が起きるのかを。そして、この本で妻に「石田さん」と呼ばれている男が、やがて娘たちの成長を見届けられなくなってしまうことを。

 しかしそのことは、本書の魅力を少しも減らしたりしない。真ん中にあるのは、あくまで「育児闘争記」だから。10年や20年そこらではこの世からなくならない、育児の苦しみだから。

 

 だから、私にはSOSにしか読めなかったこの本が、「ラッパー妻の子育てスペクタクル生活」という帯を付けられ、「心あたたまる子育て日記です」と売り出されていたことには、10年前のこととは言え、強い違和感を覚えた。

 だが、これは不公平な「あと知恵」というものだろう。育児の経験が私を変えたに過ぎない。発行当時、「自分のことを暴露するのが好き」というECDのことだから、これは当事者公認の見世物なんだと。楽しんでいいのだと。そんな風に考えていた気がする。

 

 繰り返しになってしまうが、今の私は本書をそういう風に読むことはできなかった。

 

 もちろん、「ECD観察日記」的な面白さはある。公開される日々の出費明細を眺めて、ECDでもAmazon使うんだな、とか、「お一人様いくつまで」というスーパーの特売には動員されるんだな、とか、ECDがラップしなかったECDを発見している気分になった。

 その一方で、田舎に置いてきた親のこととか、核家族が育児に挑むこととか、ECDのEの字も知らない人が読んだとしても訴えかけるテーマこそが主題だと、今は思う。言葉を生業にしている夫と、言葉が通じない二人の娘に囲まれた特殊な言語圏で、著者は自分の言葉でしか表現できないもやもやを、見事に拾い上げている。

 

 育児って、「没入」と「離脱」の絶え間ない往復だ。カッとなって2歳児相手に本気で怒鳴り散らしたり、自分でもゾッとする。その後の自己嫌悪、反省。反省したはずなのに、数日後には何に対して怒ったか思い出せず、またカッとなり。

 その反動のキツさをみんなで共感しあっても、「本当は」何かを解決することにはならないのだろう。『家父長制と資本制』の評には生意気も書いた。でも、「育児から解放されたがっている自分」を、この本の前でなら素直に認められる気がする。そして、妻がそう思うことも認めてあげたい。たぶん、それでようやくスタート地点なのだ。

 

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著者:植本一子
出版社:ミュージック・マガジン
初版刊行日:2011年8月27日