Trash and No Star

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宮台真司『終わりなき日常を生きろ』書評|「1995年」の診断書、としてではなく

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 およそ10年ぶりの再読。最初に読んだ時は、「終わりなき日常」や「さまよえる良心」といった言葉の強さに惑わされる一方で、社会があっという間に「診断」され、問題の解決策が「処方」されるまでの圧の強さ、他者に対する断定的なフレーミングへの拒否感が強かった覚えがある。

 それは、著者の論理に従っている限り、すべてが説明「できてしまう」ことへの、逆説的な居心地の悪さみたいなものであったと思う。しかし今回、オウム関連本の流れで読み直して伝わってきたのは、「終わらない日常への適応」に失敗した人々が抱えていたであろう、「キツさ」への眼差しだ。

 

 教団信者、特に幹部クラスと同世代である著者は、一連の騒動をまずは「世代問題」として整理する。つまりオウムが、あるいは「オウム的なるもの」が支持されたのは、著者と同じ新人類世代が、日常の「中」でも「外」でも閉塞し、「終わらない日常への適応」に失敗した結果だというのである。

 科学がもはや、SFのような輝かしい未来を約束してくれない時代では、もう「輝かしい進歩もないし、おぞましい破滅もない」という停滞の感覚が蔓延する。それを著者は「終わらない日常」と呼んだわけだが、理科系・技術系エリートの教団幹部に象徴させる形で、新人類世代がそこに「適応しそこなった」ことを論じる。

 突破口は「コミュニケーション・スキル」であり、終わりなき日常の中で「まったり」生きる技術だという。しかし共同体が空洞化し、コミュニケーションを処理する負荷がすべて個人に降りかかってしまうと、それに適応できる者が世代を追って増えるにつれて、適応できない者はさらに追い詰められてしまう。

 

 と要約してはみたけれど、オウムに囚われずに読むと、こうした「キツさ」を想像できなかった者たちへの侮蔑こそが際立って見える。根底にあるのは、「認識にもコストがかかる」という原理であり、本書を「95年の診断書」として読まないのであれば、著者の言い分としてはやや地味なこの認識こそ、本書の基盤にある問題意識ではないか。

 だから、どういう生き方、ないし「想像力」が現代においてより適応的か、みたいな宮台フォロワーたちの議論に私は関心を持たない。どれほど社会が複雑化し、価値観が相対化しようと、いや、むしろ「だからこそ」、私たちはできる限りの認識コストは払い続けなければならない、ということを瞬発的に書いた本なのだと思った。

 

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著者:宮台真司
出版社:筑摩書房ちくま文庫
初版刊行日:1998年3月24日