Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

村上春樹『女のいない男たち』書評|Some Girls、あるいは長いお別れ

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 「まえがき」があることにまず驚く。こんなに慎重な作家だったろうかと思うほど親切な自著解題から入る本書は、著者の言葉を額面どおりに受け取れば、「いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」についての、コンセプト・アルバムである。

 

 それなら黙ってそのように読めばいいのだが、この前口上を読み、私は強い違和感を覚えた。コンセプトも何も、そもそも村上春樹とは、「いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」を一貫して書いてきた作家ではなかったか。なぜ、改めて題材として名指しされているのか。

 著者自身、その理由は分からないらしい。一つ言えるのは、ここでの男たちは、女性に象徴的に去られるとか、観念的に去られるとかではなく、とにかく通俗的に、即物的に、実際的に、ただ去られるのである。多くの場合、それは女性たちが「誰か他の男と性交すること」によってもたらされる。

 随所に自伝的要素をちりばめられた村上春樹的な男たちは、そのことに傷つくのだ。それも、とても深く。要するに、これは男たちを襲うミドルエイジ・クライシスの物語である。本書執筆時点で還暦を過ぎていた著者は、いま、このような物語を必要としたのだろう。男たちが、人間としての成熟や、人生の円熟を迎えることなく、女たちに去られゆく物語を。

 

 映画化された「ドライブ・マイ・カー」は、男と女の本質的な行き違い、みたいな楽チンな落としどころに向かっているようで気になったが、作中、女に去られた男(=家福)が披露する酒をめぐっての洞察を応用するならば、こういうことだ。「世の中には、自分に何かをつけ加えるためになされるセックスと、自分から何かを取り去るためになされるセックスがある」と。

 彼の妻には、おそらく後者のセックスが必要だったのだ。彼にはその合理性が想像すらできなかった。悲しい男だ。その意味でいくと、出色のサスペンス「木野」で女に去られた男(=木野)が手を貸してしまうのは、後者のセックスだ。以降、彼の心の空洞は何者かに狙われることになる。描かれるのは、自分の人生を決定できない不能感である。それもまた、著者が一貫して描いてきたものであるが。

 

 というわけで、『女のいない男たち』は例によって極めて村上春樹的な小説である。何のオチもないが、少なくとも私にはそうとしか言いようがない。

 

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著者:村上春樹
出版社:文藝春秋〔文春文庫〕
初版刊行日:2016年10月10日

永吉希久子『 移民と日本社会』書評|「移民問題」を乗り越えていくために

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 日本で暮らす「移民」について知り、考えようという時に、望月優大著『ふたつの日本』の次に読むといいとどこかで読んだが、まさにそのとおりだ。「今、何が起きているのか」を直視し、建前だらけの受入制度を批判するのが『ふたつの日本』だったとすれば、本書は「これからどうすればいいのか」という見通しを与えてくれる。

 すでに多くの人が肌で感じているように、日本がこの先、今のように社会を維持していこうとするならば、少子高齢化による労働者不足は克服できそうもない。コンビニのアルバイトが一斉に留学生に置き換わったことからだけでも、それは容易に想像がつく。政府が彼らをどう呼ぼうと、担い手不足の業界を目指して「移民」は日本にやってくる。そして、それを望んでいるのは他ならぬ「私たち」なのだ。

 

 あえて指摘するなら、本書にも「移民は必要である」という含意はあると思われる。その必要性を前提とした上で、建設的な議論のベースとなる「共通の基盤」を構築しようとしているのだ。

 そのために本書が立脚するのは、大量の統計データだ。「移民は労働条件を悪化させるのか」、「移民は日本経済の成長につながるか」、「移民の受け入れは少子化に歯止めをかけるか」、「移民は福祉国家の貢献者か受益者か」、「移民は犯罪を増加させるか」――各章にはこんな見出しが並ぶが、統計に寄った「量的な記述」は、読者に冷静さを忘れさせない。

 同時に、見て見ぬふりをしてきた事実が突き付けられたりもする。例えば、2018年に不法就労で摘発された男性では「建設作業」に従事する者がもっとも多く、女性では「農業従事者」がもっとも多かったという。また、出身国では専門職や管理職に就いていた人でも、日本でその技能を生かせる職に就くことは難しいことも分かっている。このことをどう考えるべきかは言うまでもないだろう。この国の労働市場で特等席を占めているのは、相変わらず「日系日本国籍者の男性」なのだ。

 

 こうした象徴的な問題だけでなく、例えば「自治会」のようにローカルな問題にまで議論が及んでおり、あなたもきっと射程に入る。「終章」で喝破されるように、世間で「移民問題」と呼ばれているものは、私たちが先延ばしにしてきた「日本問題」に他ならないのだ。「社会構造がもつ問題が変わらない以上、そこからくるひずみを移民たちに課したところで、問題が解消するわけではない」という指摘が重い。

 

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著者:永吉希久子
出版社:中央公論新社中公新書
初版刊行日:2020年2月25日

MOMENT JOON『日本移民日記』書評|In The Place To Be

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 「個」であること。著者が特別な感情を寄せるラッパー、故ECDとの共通点を探すなら、私はこの一言にたどり着く。孤高を貫くとか、そういうことではない。「何かに寄りかからない」ということである。

 例えば、自らが「移民」であることを宣言するときも。件のナイキCMに対して違和感を表明するときも。自分の孤独の住所も、愛の住所も、ここ日本にあり、もうどこにも行く理由がないとつぶやくときも。傷口から逃れるように吐き出される著者の言葉は、時に無防備だが、何にも寄りかかっていない。

 

 特に、「移民」という言葉。法律的にどんな定義なのか、「クソほども興味がありません」とは言うが、もちろん、日本という国が、移民を必要としながら決してその存在を認めようとはしないことを踏まえての宣言だろう。

 政府や経済界が望む、「別の本拠地がある、いつかは帰ってくれる人」ではなく、誰が何と言おうと、「現に今、人生の本拠地として、ここで生きている人」を表すものとして、この言葉を可視化させ、意味を取り戻しているのだ。

 

 この取り戻しに象徴的なように、本書を貫くテーマは、広い意味では「移民」や「在日」も含む、差別用語の自己使用による「意味の取り戻し」であり、そういった文化を痛みの中で育んできたヒップホップへの愛情だ。

 だが、途中、かいつまんで説明される著者の修士論文によれば、日本のヒップホップにおいて、差別用語が使用されることはあっても、アーティスト自身と社会的スティグマとの関係性は明確でないという。それはおそらく、著者にとって、日本にヒップホップがないことと同義である。

 

 付け加えるなら、著者が選んだ「移民」という言葉の背景には、「在日」という言葉への引き裂かれた思いが複雑に重なり合っていることが分かり、途中、ページをめくる手が止まる。

 ダイバーシティとかインクルージョンみたいな言葉がふわっと流通する社会で、私たちが忘れてはいけないのは、「多様性」なるものは、あなたが認めて「あげる」ものではない、ということである。それは誰かにとっての「普通」であり、何の許可も承認も必要なく、ただ普通に、そこに存在しているものだ。

 だからこそ、MOMENT JOONの言葉はたとえ孤独でも、決して聞き手と、読み手と、断絶してはいないのだろう。あなたが望む限り、彼の言葉はそこにあって、世界へ開かれている。まだ見ぬ、誰かの切実さのために。

 

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著者:MOMENT JOON
出版社:岩波書店
初版刊行日:2021年11月26日