Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

上野千鶴子『女の子はどう生きるか』書評|せめて女の子の翼を折らないために

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 この国で、女の子として育ち、生きるということ。そして、この国で、女の子を育てるということ。それがこんなにも、ハードなことだとは思わなかった。ウンザリするようなニュースの山、山、山。その気付きは同時に、自分がこれまで出会ってきた女性たち全員が、一人の漏れもなく、このハードさの中を生きてきたサバイバーなのだという事実を、私に突き付ける。 

 私はだから、上野千鶴子の本を、単純に称賛することができない。私は撃たれているのである。本書で使われている平たい言葉を借りるなら、ただの「オッサン」が、「上野千鶴子を読んだことのあるオッサン」になったに過ぎないのだ。そのことは、自分がこれまで加担してきたもののおぞましさを少しも低減してはくれない。それでも懲りずに、この本を買ってきたのだが。

 

 内容について、少なくとも著者の代表作を読んでいる人に向けて、新たに付け足すようなことはほとんどない。中高生程度の読者を想定した、一問一答形式のジェンダー入門書だ。

 件の祝辞がそうであったように、著者が撃つのは一貫して「環境」である。自分の置かれた環境を、変更不可能な初期値として受け止め、そこで「先生のよい子」として適用しようとするのではなく、「わきまえない女」としてその環境自体を変えようとすることも可能であること。読者の視線をあの手この手で、その先へと誘導している。

 

 仮に、「先生のよい子」としてそのまま適応を続けた場合、何が起こるのか。待っているのは、歪んだ定規を用いた「一人前の組織人」としての適合検査である。審査員の男は、「家で身の回りのことを全部やってくれる家政婦としての女性(母or妻)がいるから」こそ、彼らが定義する意味においてのみ、一人前でいられるのである。

 その裏事情を知らないと誰だってつぶれてしまうし、「女性にもチャンスを与えたのにつかみに来ない」みたいな自己責任論にごまかされてしまう。執念深く、何度も言及されているように、ジェンダー平等とは、「女も男並みに頑張りますから仲間に入れてください」ではないのだ。

 

 もちろん、こうしたハードさは、女の子だけが背負わなければならないものではない。せめて「上野千鶴子を読んだことのあるオッサン」として、娘たちの側に立っていきたいと思う。

 繰り返し、繰り返し、女の子たちが「冷却」されてしまう世界では、繰り返し、繰り返し、女の子たちを温める言葉が必要だ。

 

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著者:上野千鶴子
出版社:岩波書店[岩波ジュニア新書]
初版刊行日:2021年1月20日

レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役にたつこと』書評|いい事ばかりはありゃしない

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 最後にいい事があったのは、一体いつだろうか。思い出せない。明日、いい事が起こるなんてことも、別に期待していない。人生の大きな抽選からはすでにあぶれてしまったし、サクセスストーリーの最終電車からもとっくの昔に降りてしまった。この人生がどこに向かっているのか、もう自分にすら分かりゃしない。

 そんな風に、もはや人生を祝福しておらず、人生からも祝福されていない人々。そこから覚めるために夢を見る人々。レイモンド・カーヴァーが描くのは、そういう人々だ。少なくとも、ここで描かれる人たちがこの先、合衆国の長者番付にエントリーする可能性は限りなく低いだろう。もう一発逆転はない。

 それでも、人生は続いていく。

 

 本書は、いずれも短編集である76年の『頼むから静かにしてくれ』、81年の『愛について語るときに我々の語ること』、83年の『大聖堂』、88年の『象』からの、訳者選定によるリミックス版である。

 前半の初期作品こそ、ペーパーバックで床に寝っ転がりながら読みたくなるような軽快さだが、訳者が「暗い予感」と呼ぶ停滞の感覚、緩やかな下降の感覚は、後半に進むにしたがって強くなる。それを喜ぶかどうかは読者の好み次第としか言いようがないが、私はその控え目な演出の巧みさに圧倒されていた。

 それは、固定カメラによる気まずいほどの長回しのような、どこか映画的な感性であり、例えば「愛について語る時に我々の語ること」や「ささやかだけれど、役にたつこと」のエンディングにおいてそれは、「何も動かさず、何も語らないこと」によって見事な余韻を引き出している。

 

 一方、あらゆる逸話はとても世俗的で、訳者の好む言葉を使うならば、とても実際的だ。カメラが追うのはいずれも半径2メートルの世界で、小説みたいにマジカルなことは何一つ起こらず、起こることと言えば、つまらない喧嘩や、交通事故や、酩酊や、離婚や、不倫や、失業といった、ドラマみたいに平凡なものばかりだ。

 それでもここには、絶望ばかりがあるわけじゃない。カーヴァーはこれらの人々を、恥ずかしいと思って描いているわけではない。こんなに素朴な読み方でいいのだろうかと迷ってしまうくらい、私はこれらの起伏の少ない断片的な物語を(物語と呼ぶのが大げさならば、小話を)染み入るような気持ちで読んだ。

 これでも私は、きっと語り過ぎなのだろう。見知らぬ誰かに黙って渡したくなる、不思議な本だ。 

 

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著者:レイモンド・カーヴァー
訳者:村上春樹
出版社:中央公論社
初版刊行日:1989年4月20日

岸政彦『はじめての沖縄』書評|海を受け取ってしまったあとに(10)

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 沖縄を語ることについての、本である。あるいは、沖縄のことなど語れないと、思い知るための本でもある。そして、それでも沖縄を語りたくなってしまうことについての、本でもある。同時に、どう語ってもそれは沖縄を語ったことにはならないことを知るための、本でもある。

 要するに、とても「めんどくさい」本だとは、著者自身の評である。20代の半ば、初めて訪れた沖縄で「沖縄病」を患ってしまった著者の中にあふれ出す、「はじめての沖縄」への罪のない愛に蓋をして、著者自身が、これからも、何度でも、沖縄と出会い直すために書かれた本として、私は読んだ。

 

 本書は、沖縄が「分かる」本ではない。何も断定されず、何も確定しない。それは、「歴史には、それを経験した人の数だけ顔がある」ということでもあるし、『地元を生きる』の合評会で出た言葉を使うなら、書き手や読み手の「ポジショナリティ」によって沖縄の表情はあまりにも違う、ということでもある。

 そこには、「境界線」が存在している。それは地理的な、歴史的な、政治的な、境界線である。あるいは壁。その壁は、普段、「お前は何者か」と問われることから免除されている私たち本土の人間に向かって、「お前は何者か」と、激しく詰め寄るだろう。それは都合よく隠したりできない、確固たる壁だ。

 

 池澤夏樹が、大江健三郎を批判して用いた「贖罪のポーズ」という言葉。そういう物差しで測るのなら、本書は、語りようのない沖縄をそれでも語ってみることの困難が、贖罪によって免除されるとは思っていない。

 沖縄の人々は、長い間、本土とは異なる秩序の中を生きてきた。それを強いてきたのは、私たち本土の人間である。その構図から逃げることはできない。その上で、確固たる境界線の前で立ち尽くすこと。道に迷ったとき、本書はそこへ帰ってくる。

 

 ディテールにこそ社会が宿っている、と思わされるようなダイナミズムは健在だ。しかし、著者自身、誰かの人生の物語を、歴史や構造の物語と架橋させる必要を感じている点は、見落としてはならない変化ではないか。 

 いつか沖縄を、固有の歴史と、固有の構造を抱えた場所として描きつつ、それでも人々の人生がバラバラであることを描きながら、同時に、そのバラバラな人生がどれも、沖縄という固有なものの固有な断片であることを描くこと。

 そこに向かう本書は、次に来るであろう何かのための、長い長い助走に違いない。

  

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著者:岸政彦
出版社:新曜社
初版刊行日:2018年5月5日