Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

熊本博之『交差する辺野古 問いなおされる自治』書評|海を受け取ってしまったあとに(9)

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 さまざまな視線が交差する場所、辺野古。文中にあるとおり、普天間基地移設問題以降、「辺野古の住民は望んでもいないのにさまざまな視線にさらされてきた」。そしてその視線は、複雑に絡み合い、ねじれたまま硬直し、簡単にはほどけなくなってしまったように思える。

 どうやったら、硬直してしまった視線を解きほぐすことができるのか。どうやったら、忘れられてしまった辺野古への視線を、本土から呼び戻すことができるのか。本書は、辺野古で経験されてきた固有の「時間」にどこまでもこだわりながら、同時に、この問題を外部と共有しうる「一般化」の回路を探ろうとする試みである。

 

 ねじれの象徴ともいえる、辺野古区民と反対運動の対立。この悲劇的なズレを理解するうえで、「政治の時間」「運動の時間」「生活の時間」という整理が分かりやすい。「政治の/運動の時間」は、作用と反作用みたいなものだから完全に同じ位相を流れているが、問題は「生活の時間」だ。

 例えば、「反対運動の影響で渋滞が発生し、病院の予約時間に間に合わず、薬が処方されなかった」という辺野古区民の経験。これは、基地問題を外から考える問題系において、死角のようなものである。著者はその死角に内側から光を当てる。根気強いフィールドワークによって。

 

 描かれるのは、辺野古という場所に堆積した「時間」である。1950年代、米軍支配下の沖縄で、海兵隊基地キャンプ・シュワブを受け入れて以来、シュワブと共存し、ともに栄え、再び衰退していくまでの「時間」である。

 反対しても無駄なら、できるだけ有利に条件交渉を進める。それが「賢明な策」であり、「子々孫々まで悔いを残さない」ための選択だという感覚。分厚く、両義的に堆積したその「時間」の上に立つとき、見えてくる生活者のリアリズムは決して軽くない。


 そして、この「時間」の概念のように、本書の最大の特徴は、沖縄や基地問題を語ってきた典型的な文法の外から、多くの理論を持ち込んでいる点ではないか。

 例えば、沖縄の米軍基地を「NIMBY(=自分の家の裏庭には欲しくない迷惑施設)」の一類型として見つめ直す試みや、対立する辺野古区民と反対運動の関係を「リスク論」のモデルを用いてとらえ直す試みは、「誰が当事者で、誰が非当事者か」という単純な区別を超えた視野を読み手に与えてくれる。

 そこでは、あなたも無傷ではいられないはずだ。手を伸ばそう。 

 

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著者:熊本博之
出版社:勁草書房
初版刊行日:2021年2月10日

『沖縄現代史(岩波新書、中公新書)』読み比べ|海を受け取ってしまったあとに(7・8)

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 「沖縄現代史」という、教科書のように一般的なタイトルではあるものの、やはり、この2冊の一致には何かしらの意図を見るべきなのだろう。

 既に新崎盛暉岩波新書『沖縄現代史』(以下、『新崎本』)が新版として再発されるほどの古典として認知されている中での「あえて」の発行であるから、2015年の中公新書『沖縄現代史』(以下、『櫻澤本』)は、むしろ『新崎本』との比較を望んでいるように思える。

 実際、『櫻澤本』の主要参考文献一覧の中で、新崎盛暉が個人としては最も多い参照先であること、また、文中での言及の温度感から言っても、『櫻澤本』が持つ問題意識、あとがきにある「沖縄現代史についても、1950年代から本土同様の保革対立を前提にする理解がいまだに根強い」という意識は、『新崎本』にも向けられているのだろう。

 

 その『新崎本』が描くのは、沖縄の民衆による抵抗の歴史である。政治史でもあるが、ここでの政治とは、民衆の怒りや、時には諦めが、選挙を通じてどのように可視化され、また間接民主主義という限界の中でどのように挫折し、冷却されていくかを計測するための指標である。

 後年の『日本にとって沖縄とは何か』でより分かりやすく顕在化するように、沖縄を流れるマグマのような抵抗の意思を掴み、それが生じる仕組みを構造的に/歴史的に把握した上で、最後は日本の本土に向けて、「沖縄を犠牲にしている自覚はあるか」と問いかける。言葉は冷静だが、怒っている。

 

 新崎が睨みつけるのは、一貫して日米安保体制だ。それは「日本の国防」という建前からどんどん拡張し、「日本を含むアジア・太平洋の平和と安全」の確保という、世界の警察官たるアメリカの世界戦略の実現に向けて更新され、日本はそれを積極的に補完してきた。莫大な資金と、沖縄を差し出すことによって。

 自省なくしてこの先を書くことはできないが、それでも断言しなければならない。本土住民の無関心が、この構造を保存し、強化している。差別がなくならないのは、構造的に、差別する側にとって、不作為こそが最大の利益となるからだ。

 私たちは、沈黙し、あるいは無知でいる限り、在日米軍基地の大半を沖縄に集中させることに同意している。沖縄で暮らす人々の上に、たくさんの戦闘機を飛ばすことに同意している。まずは、そのことを知ることでしか何も始まらないと、『新崎本』は言っているように思う。

 

 総じて、いかにも新書らしいコンパクトなボリュームながら、重苦しい本だ。それを書評と呼ぶにしろ、感想と呼ぶにしろ、容易く文章になどできない感じがする。そういう重さがずっしりと肩に残る。読み終えた瞬間には、思わず唸り声が漏れてしまった。

 

 一方、こうした一種の高揚を、いったん相対化しませんか、というのが『櫻澤本』だ。本書が目指しているのは、ともすれば「抵抗する主体」としての表情が正統的に描かれがちな沖縄を、角度を変えて見つめ直すことである。あるいは、意図的に忘却されている「保守する主体」としての沖縄の表情を思い起こすことである。

 ごく単純化して言えば、『新崎本』において革新側は善であり、保守側は悪である。しかし、『櫻澤本』がまえがきで紹介するのは、「本土への復帰は沖縄経済が自立してから」と主張していた保守勢力の声だ。保守だって「よりよい沖縄」は目指していたのであり、それを傍流と見なす新崎を第5章では明確に批判している。

 

 「民衆抵抗史」的な『新崎本』と、『櫻澤本』とを分けるもの。その極たるものが、経済的な視線であろう。所得や失業率といった経済指標、各種の国庫支出に関する淡々とした語り口が、もう一つの現代史への視界を広げてくれる。それは確かであるし、現代沖縄の階層的な分断を描いた『地元を生きる』で問題化されていた、極端に低い第2次産業を沖縄がどう考えてきたのかも、ここで歴史的に学ぶことができる。

 しかし、専門家から高く評価されているこうした丁寧な目配せは、初学者にとってはしんどい、勤勉過ぎる網羅性となっており、途中、やや息切れする。言い換えれば、『櫻澤本』は、著者によって「一般的な語り」と称されている『新崎本』的なものに対する「メタ現代史」になっているので、その意味では、ベタを知らない全くの初心者には向かないかも知れない。

 

 この点で、私は「読むなら、まずは『新崎本』から」という立場を取るが、米軍支配下の27年間については、著者自身が記載量の限界を認め、 中野好夫との共著『沖縄戦後史』に譲っているので、網羅性に耐える自信があるのであれば、量は『櫻澤本』に軍配が上がる。

 とはいえ、この2冊は正面から対立しているわけではない。むしろ、沖縄を流れるマグマのような感情として、「沖縄戦の経験/歴史認識」や、「これ以上の基地は勘弁」という大きな共同性を見い出す点は、どちらも同じだ。うまく併読したい。 

 

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(写真左)
著者:新崎盛暉
出版社:岩波書店岩波新書
初版刊行日:2005年12月20日

 

(写真右)
著者:櫻澤 誠
出版社:中央公論新社中公新書
初版刊行日:2015年10月25日

東浩紀『ゲンロン戦記』書評|哲学者とエクセル(もしくは、今すぐには変わらない世界のために)

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 どこで東浩紀とはぐれてしまったのだろう、と思い返しながら読んでいたら、答えが書いてあった。『福島第一原発観光地化計画』だ。

 夢から醒めたように、私はその本を買わなかった。表紙の過剰なポップさに馴染めなかったのだ。この10年を振り返った本書の中でも、そこで「まじめな読者が離れた」と回想されている。

 商業的にも挫折し、完全に立ち往生してしまったというが、背景には本の内容以前の問題があったと明かされる。

 

 創設メンバーによる資金の使い込み、 意思決定層の総務・雑務への無関心、それによる放漫経営、資金難、ハイリスクな一発逆転思考、スタッフのケツ割り等々。著者の立ち上げた会社=ゲンロンが見舞われた困難の数々だ。

 失敗の理由、それは「社会を変えることの身体性」が理解できていなかった、ということに要約できるだろう。

 どんな崇高なプロジェクトであれ、末端では誰かがエクセルやテプラを使ってクソみたいな事務仕事をしなければならない。そこには経営陣の熱さとは全く無関係の秩序がある。それはそれで、普通に回ることで全体がやっと回る。著者にはそれがわからなかった。

 

 著者は結局、「ぼくのかんがえたさいきょうのゲンロン」を実現したかったのだ。それが社会を変えることの近道だと信じていた。

 しかし、絶望した著者の隣に最後まで残ってくれたのは、ひとりでも生きていけるであろう「アカデミア時代の教え子」と、単発案件でたまたま出会ったに過ぎない「ロシア映画の字幕をやっている人」だった。第5章で描かれる、「誤配」による救済は祝福のようでもあり、感動を誘う。 

 

 啓蒙、という言葉が最後の方に出てくる。ずいぶんクラシックな言葉だが、本書の総括にぴったりな言葉だと思った。筆者なりの理解で要約すれば、東浩紀は、この10年でインディペンデントな「啓蒙活動家」となったのだから。

 見たいものしか見ようとしない人々の「見たいもの」そのものをどう変形させ、ハッシュタグを打ち込む時間の代わりに「考える時間」をどのように確保していくか。選んだ道は地味だが、失敗によって鍛えられた確信は深い。

 

 いまの私は、ゲンロンとはすぐには交わらないかもしれない。だが、自分が誰かから受け取った誤配を大切に生きていくことそのものが、著者へのエールになればいいなと、本書を読んで思った。今すぐには変わらないが、いつかは変わっているかもしれないこの世界のために。 

 

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著者:東浩紀
出版社:中央公論新社中公新書ラクレ
初版刊行日:2020年12月10日