Trash and No Star

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スコット・フィッツジェラルド『マイ・ロスト・シティー』書評|すべて悲しき若者たち

 スコット・フィッツジェラルドは、44年というその短い生涯で、160もの短編を残したと言われている(Wikipediaでそのリストを眺めることができる)。

 荒地出版社から1981年に出ている3部作――わが国最初の年代別作品集とう触れ込みである――の第1巻『ジャズ・エイジの物語』に収められた訳者解説「フィッツジェラルド――人と作品」にいろいろと詳しいことが書いてあるが、とにかく彼には、すぐに動かせる現金が大量に必要だったというのは有名な話である。

 一気に書けて、原稿料がパッと手に入る大衆雑誌への短編の寄稿が、フィッツジェラルドにとっての貴重な定期収入であり、いち妻帯者としての生命線だったというわけだ。もちろん、そこで得られた現金の大半は、妻・ゼルダとの派手な私生活に消えていった。眩いまでに美しく、そして金のかかる結婚だった。

 

 これも先の「フィッツジェラルド――人と作品」に書いてあることだが、ある批評家の言うところでは、自転車操業的に書かれた大量の短編のうち50編が「真面目で成功した作品」であり、さらにその半分(つまり25編程度)が「傑作」であるという。より厳密には、ズバリ28編というのが文芸批評の世界である程度定着した数だそうだ。

 その定番28編の選定をややアレンジして再構成したのが、荒地出版社から出ている先の3部作であるから、まずはそれを古本で探すのが手っ取り早いだろうが、翻訳の読みやすさや入手のしやすさなどをもろもろ加味すると、やはり、多くの人はフィッツジェラルドの熱心な紹介者の一人である村上春樹を頼ることになるのではないかと思う。

 

 そんなわけで、紹介しよう。本作『マイ・ロスト・シティー』は、訳者・村上春樹のセレクトによる「短編小説5編+その他いろいろ」である。先の『ジャズ・エイジの物語』と同じく、1981年の5月に最初の単行本が出ていて、3年後に文庫化されている。これはそのライブラリー版の新訳だ。

 訳者にとって「生まれて最初におこなった翻訳作業であった」ということもあるだろうし、「(1984年の時点で)翻訳が発表されていないものを選んで訳した」ということもあるだろうが、全体の構成が初見の人にとってはいささか分かりにくいものになっている。

 例えば、最初の「フィッツジェラルド体験」は、巻頭に置くにはいささか力の入りすぎた訳者による評伝だし、最後の「マイ・ロスト・シティー」はフィッツジェラルドによるエッセイであるから、普通に読んでいくとなんとなくスッキリしない。

 純粋な意味での短編は「残り火」「氷の宮殿」「哀しみの孔雀」「失われた三時間」「アルコールの中で」の5編だが、荒地出版社のシリーズと違って年代もバラバラ。しかも、2006年のライブラリー版発行に伴い、「ニューヨーク・ポスト」による1936年のインタビューまで追加収録されているので、さらに複雑な構造になってしまっている。

 おまけに、このシリーズとは別に、中公文庫から『フィッツジェラルド10』なんていう傑作選まで出ているようで、そんなことをするくらいなら、全体のボリュームを落とさずに、もう少しこのライブラリー・シリーズを体系的に再整理してもらえたら嬉しいなと思うのだが、叶わぬ願いだろうか。

 

 もっとも、こうした構造上の欠陥――と言うほどのものでもないかもしれないが――は、実際の読書体験にはほとんど影響しないのもまた事実である。それは、「残り火」や「氷の宮殿」といった作品が、とてもじゃないが1920年というデビューの前後に書かれた初期作品とは思えないからだ。

 いま思えば、自らの将来を決定的に予見しているようにも読める「残り火」では、美しい妻をもらった流行作家が、ある日突然植物状態になってしまって、希望の残り火が完全に消えてしまうまでの過程を描いているし、「氷の宮殿」では、いかにもアメリカ文学らしく、南北戦争を題材に、運命のように強く惹かれ合った一組の男女が、まさにその南北の精神的な距離によって決定的にすれ違っていく過程を淡々と描いている。

 崩壊は、おそらく予感されている。それでも、私たちにできることなんて何もない。「二人の前を、人生はあまりに速く通り過ぎていった」――そう、ここにあるのは終わりだけだ。その抑制されたストーリーテリングに改めて驚かされた。

 

 金も仕事もなかったとはいえ、第一次世界大戦が終わり、世界の絶頂を謳歌しつつあったアメリカ合衆国で、若干24歳の美青年がなぜこのような物悲しい、老成した短編を次から次へと書いていたのかは謎であり、魅力でもある。

 もっとも、デビュー当時からこのような必然の破滅を描いてきたフィッツジェラルドが、自らの身に降りかかった実際の破滅を味わった後に、さらに救いのない、具体的な破滅を描くようになったことを、どこまで単純に「魅力」と言って受け入れてしまっていいのかは分からないが。

 

 実際、この5編の中では傑出した「哀しみの孔雀」は、人生の手酷い仕打ちに打ちのめされた、ある親子の話である。父親は事業に失敗し、妻は入院となり、娘は私立校から公立校へ移り、やがてはそこも放校にされるという。そこに救いなんてものはないが、かと言って小説として付け加えるべきものも何もないのだ。

 元は1935年に書かれたものの、『サタデー・イブニング・ポスト』誌によってボツにされ、死後、『エスクァイア』誌によってエンディングの数章が省略された形で1971年に掲載されたという経緯もまたこの作品に相応しいような気もするが、これは編集者の判断が正しかったと言うべきだろう。

 それが紙幅の制限によるものだったのか、文学的判断だったのかまでは分からないが、この大胆な省略をもってして初めて、この作品はフィッツジェラルドの作品リストに連なる資格を得たとさえ言えると思う。

 「暗い破局の日がやってきた」――その急落は美しいほどだが、そうした人生の「底」で、もうお互いに与え合うべきものは何もなく、だからこそお互いを与え合うことで本当の意味で心を通わせることのできた親子に訪れる、束の間の、温かな沈黙。その深い余韻に圧倒される。

 人生はただ失われていくだけだ。でも、このような一日もあるのかもしれない。

 

 その後の2編、まず1941年の「失われた三時間」は、まさに「歯医者の待合室での退屈な30分を共に過ごすにはうってつけ」な小話で、1937年の「アルコールの中で」は、穏やかに読み切ることのできない著者の悲惨な自画像である。いろいろと小言も言ったが、やはりこうやって芸もなく並べてみると、フィッツジェラルドの素顔を少し覗いたような気になれる佳作揃いだ。

 そもそもの話、1934年の『夜はやさし』は、Twitter的な「私を構成する9冊」をやれば最初の方に入る作品なのだが、自分がその作品のどこにそれほどまでに惹かれたのか、この短編を読み直すことで今更ながらに少し分かった気がする。

 そんなふわふわな人のガイドは受けたくないだろうが、もし何かの間違いでここからフィッツジェラルドを読むことになったという人がいるなら、まずは5つの短編を前から順に読み、いったん訳者による評伝「フィッツジェラルド体験」で著者のおおよその暮らしぶりや作品世界を理解してから、巻末に付いている1936年の「インタビュー」でそれを補強し、同年のエッセイ「マイ・ロスト・シティー」を最後に読むのがおすすめだ。

 ある都市と、時代に強く求められ、やがてそれが無慈悲に過ぎ去っていくことがどういうことか、完璧に理解できると思う。

 

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著者:スコット・フィッツジェラルド
訳者:村上春樹
出版社:中央公論新社村上春樹翻訳ライブラリー〕
初版刊行日:2006年5月10日

 

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ユホ・クオスマネン監督『コンパートメントNo.6』映画評|世界の果てへの旅

(画像は公式Twitterから転載)

 

 モスクワから、世界の果てのような北部の街・ムルマンスクへと向かう寝台列車で、一組の男女が相席となる。

 男から見れば、女は、かわいいけど不愛想。イヤホンで音楽を聴いたり、窓の外に向かってビデオカメラを回したりするばかりで、世間話もできない気取ったやつ。いつも仏頂面で、イライラしていて、いったい何が楽しくて生きているのかまったく想像もつかない。

 女から見れば、男は、自分が住んでいる文化的な世界とはおよそかけ離れた、低俗で野蛮な人間。暇さえあれば酒を飲み、ぐいぐい絡んでくる。興味本位の質問が、とにかくだるい。距離の詰め方がウザい。いったい何のために生きているのか想像もつかない。

 

 およそここに、ロマンスの予感などないと言ってよい。階層が違い過ぎるし、共通の話題が何もない。隔てられた世界は、隔てられたままの方が居心地が良いし、何もいじることはない。わずか数日の移動だ、身の安全を守りつつ、適当にやり過ごしておけばいい。ひとたび駅に降りれば、もう二度と会うことはない他人同士なのだ。あとちょっとの辛抱じゃないか、あとちょっとの。

 

 その女・ラウラの振る舞いを見ていると、素性の知れない男と相席になってしまったのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、都会暮らしの人間はもはや他人を犯罪者予備軍としか見ていないのだな、ということがよく分かる。

 人との距離も、うんと遠く取る。電車でたまたま相席になった人間と世間話をするなんて、時間つぶしにしてはコスパが悪いし、そもそも自分にとって何のメリットもない。変に優しくして勘違いされたら困るし。

 そんなことよりも私は、もっと文化的なもの、価値があって崇高なもの、深くてリアルな物事を勉強しなければならないのだ。こんな男に構っている暇はない。ちょっとでもレベルを上げて、クリエイティブ系の恋人に相応しい相手にならなければ。

 この旅だって、北の果ての大地でペトログリフ(岩面彫刻)を見ることによって、自分の文化的なレベルを上げるためのものなのだ。本当は、自分はこんな汚い寝台列車に乗るべき人間ではないのだし、この男だって、本当は自分なんかとは出会うことすら難しい人間のはずなのだ。

 

 ならば本作は、そうした階層の差を(あるいは、それが象徴する何かを)男女がロマンティックに乗り越える不器用な恋愛物語なのだろうか。

 もちろん、そのように語ることもできるだろう。だが、それだけを目指した作品では決してないと思う。女には――相手はひと時の遊び相手くらいにしか思っていないかもしれないが、一応は――恋人がいるわけだし、新しい出会いを求めて旅に出たわけではない。人生に起こり得る事故のような出会いを、あくまで事故として描くことに徹した作品だ。

 

 実際のところ、たまたま予約した寝台列車でたまたま相席になっただけの相手が、自分にとってたまたま特別な意味を持つなんていうことはあり得ないだろう。リチャード・リンクレイターの出来すぎた映画じゃないんだから。と、普通は思う。

 だが、この映画を観ていると、不思議とこうも思う。「たまたま予約した寝台列車でたまたま相席になっただけのだるい男が、どうして自分にとっての100パーセントの相手であってはいけないのか?」と。どうして人生は、そんなにも閉じられていなければいけないのか?

 クソまずい密造酒。貧乏くさいみかん。文学とも音楽とも無縁の、距離感をわきまえないありきたりな世間話。男が彼女に提供するのはそんなものばかりだ。しかしどうしてそこに、人生の真実が含まれていてはいけないのか? どうしてそう想像することすら許されないのか?

 最初は階層の異なる野蛮な男にしか思えなかった寝台列車の同席者は、「いまここにあるもの」で楽しんで生きる方法を知っている人間として、観念的・依存的になっていた彼女の人生を、さしたる共感もないかわりに笑わずに受け止めてくれる。彼女にとってそれは、肯定と気付かぬほど小さな、だが確かな肯定だったのだ。

 

 お洒落さゼロ、サブカル要素ゼロ。本作は、ワーキング・クラス版の『ビフォア・サンライズ』を喰らいやがれ、といった渾身の一作として、まずある。だが決して狭義のロマンス映画ではないし、その観点から無邪気に肯定してしまえば、勘違いおじさんの妄想を応援、ということにもなりかねない。

 それでもなぜ、この映画は特別なロマンティック・ムービーたり得ているのだろうか。それは人生が、本当はこんなにも開かれているのだ、ということの目の覚めるようなロマンが、この二人に託されているからだ。その意味においてのみ、この映画は何かしらのロマンを描いている作品なのだと言える。

 実際、二人がある種のセオリーを辿り、男女としての紋切り型のロマンスを予感してしまった瞬間に陥るぎこちなさはどうだ。二人が胸を躍らせたのは、人生がこんなにも開かれているのだという可能性そのものに対してであり、決してその結果としての「実際的な恋愛」ではなかったのである。

 

 まだ上映している映画館もあるくらいだから、彼女が冬季封鎖された北部の街で、無事ペトログリフ(岩面彫刻)を見ることができたかどうかには触れずにおこう。それが物語の第一の目的であると同時に、いつしか副次的な目的でしかなくなっていくからだ。

 きっと人生は、そこを歩もうとする人にだけ、開かれているのだろう。彼女はそれを学ぶ。世界の果てのような場所に命がけで向かう中で、そんな当たり前のことをようやく学ぶのだ。今までどれだけの人生を無駄にしてしまったのだろう。彼女の人生はまだ、始まってすらいなかったのだ。

 だからこそ、男から届けられる時間差のメッセージは、世間知らずだった彼女自身に対するメッセージとして、「文字通りに」こそ読まれなければならない。後悔を責める言葉として。あるいはもっと大きな、100パーセントの祝福の言葉として。

 

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監督:ユホ・クオスマネン
劇場公開日:2023年2月10日

 

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サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』書評|演劇が終わっても人生は続く

 二人の男が、「ゴドー」なる人物を待っている。一本の木の前で、土曜日に待ち合わせ、という約束になっていた。しかし、ゴドーは一向に現れない。いつまで待ってもやってこない。

 次第に二人は、昨日もここに来て、こうして同じように待っていたような気がしてくる。仮に、昨日もこの場所に来ていたのだとすれば、昨日が土曜日だったのか? しかし、結果としてゴドーに会えなかったということは、昨日は土曜日ではなかったということなのか?

 で、今日こそはということでまたここに来たのに、またもや会えないということは、いったい今日は何曜日なのか? ゴドーはすでに行ってしまったのかもしれないし、あるいはこれから来るのかもしれない。分からない。もはや本当のところは誰にも分からない。

 こうなってくると、約束自体が怪しく思えてくる。約束の際、ゴドーは「考えてみよう」と答えたというが、その言葉の曖昧さ以前に、もはやゴドーが実在するかさえ定かではない。我々は、本当に誰かと約束をしているのか? これで本当にゴドーを待っていると言えるのか?

 それでも、不確かな「その時」をただ待ち続けることしかできないのだとすれば、私たちの人生とはいったい何なのか?

 

 濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』において、最初に劇中劇として登場するのが、(チェーホフの『ワーニャおじさん』ではなく)この『ゴドーを待ちながら』である。概ね、上記のようなミニマリズムが二幕に渡って持続する。

 家福(西島秀俊)を相手にふわっとした感想を喋らせ、若き俳優・高槻(岡田将生)の文学的教養の程度を示唆するという演出意図を別とすれば、劇中で何か具体的な言及があるわけではない。映画に関するネット上の感想文もそこそこ検索し、ざっと目を通してみたが、そこでもそれほど多く言及されているわけではない。

 無視しようと思えば無視できるほどの細部、引用の断片に過ぎないのかもしれない。だが、芝居の断片だけでも十分に伝わるほど有名な作品のタイトルを、わざわざフライヤーを映り込ませてまでしてはっきりと分かるように演出したからには、何か映画の主題と関連していると考えるのが普通だろう。

 

 一応、ベーシックなところを先に確認しておこう。『ゴドーを待ちながら』は、訳者による巻末の解説文にもあるように、一般的には――確かに、口にするのも気恥ずかしいほど陳腐な解釈ではあるものの――ゴドーを「ゴッド(神)」のもじりと解釈して、「神の死のあとの時代に神もどきを待ち続ける現代人」をシニカルに描く寓意的な作品だと受け止められている。

 実際、彼らは間違いなく大いなる何かを待っているのだし、ある男の登場をゴドーの到着と勘違いした際には、「わたしたちは助かった!」と喜ぶ場面がある。なるほど、二人がゴドーに期待しているのは、「一つの希望」であり、「漠然とした嘆願」、すなわち何かしらの「救い」のようである。

 だが、いったい二人が何に苦しんでいるのか、その内容は最後まで明かされない。ただ、それはゴドーの到来をもってしか治癒できない苦しみなのである。傍から見れば、ゴドーを待つこと自体が二人の苦しみを増幅しているように思えてくるのだが。このように、本作はまず、到来し得ないことが自明な「救い」を待ち続ける不条理劇として存在している。

 

 しかし、改めてこうやって読み直してみると、そうした不条理に二人が没入しきった不条理劇そのものというよりも、そこから一歩か二歩程度、距離を置いた不条理劇のパロディのようにも思えるのである。

 観客に話しかけたりこそしないものの、一部の演出では劇中世界には存在していないはずの「実際のこの」劇場の幕や空間を使うなど、メタ的な視点が導入されているし、そもそもの話、二人はそれほど必死ではないように思える。

 ゴドーなんて本当はやってこないし、自分たちも本当はゴドーなど待ってはいないということを、二人は気付いているのではないか。というか、「待ち続けること」そのものが、彼らにとっては必要なのではないか。あらゆる人生の無意味さに耐えるために。

 つまり、「待つべきもの」がもう何もない時代に、「待つこと」そのものが自己目的的に必要な状態を、不条理劇の形式を借りて表現したパロディとしての演劇が本作である。その気になれば、演劇が終わったあとの演劇、と言うことだってできるだろう。そこでは、『ワーニャおじさん』などかび臭い古典に過ぎないのかもしれない。

 

 映画『ドライブ・マイ・カー』の話に戻るが、『ゴドー』を演出、自らも出演し、多言語による変奏を試みていた家福からすれば、演劇はすでに成熟期を過ぎた「壊すべきもの」だった――少なくとも彼にはそう見えていた――のかもしれない。多言語という自らの実験性は取り入れてはいたものの、『ワーニャおじさん』だって、あくまで職業的な技術によって演出すべき古典だったはずだ。

 だが、ワークショップのような形で演出することになった、彼からすれば教科書的な題材であったはずの『ワーニャおじさん』こそが、彼の人生を揺さぶるのである。彼は、自らの人生に到来した離別の予感を受け入れることができなかった。メタ不条理劇であったはずの『ゴドーを待ちながら』に対してベタに没入してしまう過ちみたいに、彼は妻の秘密なるものの解明を待つことになってしまうのである。

 

 待つことそのものが目的と化した世界では、人生の無意味さを取り払うための選択や決断に伴う責任を外部化しておけるし、期待を裏切られたり、傷つくこともない。それはある意味で村上春樹的な世界観だし、まさしく「ゴドー待ち」というほかない状態である。

 映画『ドライブ・マイ・カー』は、真面目に言えば、それを克服するための物語なのだ。一度は「ポスト演劇」のようなレベルにまで達していた家福という男が、チェーホフのベタな準古典演劇に人生を内側からえぐられるまでの、いわば人生と演劇の「定着」を描く物語だったと、今となっては思える。

 大丈夫。演劇は終わっていないし、物語も終わっていない。私たちの、このあてのない人生がみっともなく続いている限り、それは必要とされるのだ。永遠に、切実に。傷つくべき時に、「正しく傷つく」ことができるように。

 

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著者:サミュエル・ベケット
訳者:安堂信也、高橋康也
出版社:白水社白水Uブックス
初版刊行日:2013年6月25日