Trash and No Star

本、時々映画、まれに音楽。沖縄、フェミニズム、アメリカ黒人史などを中心に。

Awich『Queendom』音楽評|ラッパーと地元(沖縄篇②)

 「This is my revenge」と、2020年のミニ・アルバム『Partition』からの再録でもある「Revenge」で、Awichは何度も繰り返している。躊躇いを感じる、というほどではないが、冒頭の3曲で強調されたアルバム全体の挑発的なトーンと比べると随分と控えめな発声に感じる。銃撃による夫の死と、ラッパーとしての再起。固まった覚悟。つかみ取る未来。そして愛。強烈な表題曲「Queendom」などと同様に、アルバムのコアとなるイメージがすべて揃っているにも関わらず、この「Revenge」という曲はどうしてこんなにも悲しげなのだろう。

 彼女にとって復讐とは何か? おそらくそれは成功そのもので、つまりは大きくメイクマネーすることだったり、誰かを見返したり、ヒップホップの覇権争いの中でピラミッドを勝ち上がっていくことだったり、あるいはヒップホップ「のまま」メジャーの世界で勝ち抜くことでもあるのだろう。だがこの『Queendom』というアルバムを満たす焦燥感は、それだけでは全然足りない、という感覚をむしろ強調しているように思えてならない。彼女にとっての復讐が仮に「成功」ならば、むしろこう問わなければならない。彼女にとって成功とは何か?

 

 あまりにもベタな語りになってしまうが、それは彼女の故郷、沖縄の問題とはどうやっても切り離せないものなのだと思う。復帰50年にあわせて5月15日にデジタル・リリースされたシングル「TSUBASA」を聴いて、彼女がリリックとしての詩情を守りながらも、とてつもなく大きなものを正面から扱おうとしていることを知った。個人的にはそれまで、ヒップホップ然とした成功を見せつける「GILA GILA」や示威的な「やっちまいな」、きわどいダブル・ミーニングで煽る「口に出して」などのイメージが強かったので、この曲のシリアスなムードには当初戸惑った。

 

 

 だが、辺野古普天間で撮影されたこの曲のミュージック・ビデオで彼女が纏っているドレスが米軍のパラシュート生地で作られていることを知って、これは只事ではないと感じた。それはどう考えても、沖縄戦ですべてを失ったあと、パラシュートや蚊帳の生地でスカートを縫うなど、ありとあらゆる物資を再利用して必死に生活していた沖縄人女性たちへのオマージュだからだ。命がけで爆弾を拾い、しのいだ人もいた。それが沖縄という場所なのだ。Awich自身、先日のNHKスペシャル「OKINAWA ジャーニー・オブ・ソウル」でも、それを沖縄の「したたかさ」という言葉で表現していた。

 そうした沖縄の歴史からしたたかさを学びつつ、戦争や占領の記憶と向き合いながら、未来へと意思をつないでいくこと。その上で、「問題の一部じゃなくて答えの一部でありたい」、それが彼女の目指す「成功」一般の定義とするならば、彼女の復讐は沖縄の、あるいは女性たちの「愛と自由」のためになされると言うべきだろう。健康を害するほどの戦闘機の爆音、したたかな繁栄の陰に米兵による性暴力が蔓延してきた「love and pain渦巻く」戦後沖縄のテンションを反映しながらも、Awichの表現は常にエンパワーメントの方向を向いている。並大抵のことではない。

 

 歌詞カードを開くと、とてつもない量の文字がびっしり並んでいる。あまりにも滑らかなライミングなので自然に聴いてしまっていたが、改めて文字になったものを眺めてみると全体の3割から4割くらいが英語だ。そこで極めて素朴に、この音楽が元々はアメリカの黒人文化であったことを思い出した。先のNHKスペシャルでもAwich自身の自覚的な言及があったが、だからこそ、ヒップホップを取り込んでいくことは、米軍による長い占領を経験した沖縄ではより複雑な意味を持つのだろう。かつてのハード・ロックがそうだったように。あるいはそれ以上に。

 加えて言えば、アメリカ本国での黒人差別が基地の街にも厳格に持ち込まれていたことを知っていた沖縄の人々にとって、黒人米兵に対する共感的な感情があったのではないかということはしばしば指摘されている。MOMENT JOONの『日本移民日記』で紹介されていたところでは、Awich自身、「日本の中の沖縄という更なる差別の構造を理解している黒人たちとの間で、お互いをNワードで呼び合う環境で育った」というから、それが双方向のものだった可能性すらある。そこで育まれたヒップホップは、きっと他人の文化から盗んだものではないはずだ。

 

 もっとも、同書で分析されていた「差別用語の自己使用」や「意味の取り戻し」といった行為が、本作の副読本としても読めそうな『アメリカンビレッジの夜』で語られていた「アメラジアン」をめぐる沖縄での人種差別の問題や、Awichが陰口を再現しながら使う「ブラパン」という言葉に象徴される性差別の問題と絡めた時に、ここでどう解釈され得るのかは、今の私には到底手におえない論点だ。だが、少なくともこれだけは言える。そういった背景を考えながら聴いた方が、Awichや同郷ラッパーたちの表現は何倍も創造的なものになるということ。

 こればかりを強調するのも違うかもしれないが、しかし何度聴いても、愛憎入り混じる地元社会への複雑な感情や、怒りだけではなく、沖縄本島の多くを有刺鉄線のフェンスでくり抜く、物質的豊かさとパワーの象徴であるアメリカへの憧れをも隠すことなく吐き出す表題曲「Queendom」が、本作のベストワンだと思う。ヒップホップでは通常、地元社会とのこうした関係を「represent」という言葉で表現するはずだが、自分の知る限り彼女は「レペゼン沖縄」を積極的には標榜していない。簡単に代表できない複雑さを目の当たりにしているからではないか。

 それでもなお、沖縄を「my home」と呼ぶ覚悟を決めた彼女を、私は応援したいと思う。どこまでも行って欲しい。

 

アケミ・ジョンソン『アメリカンビレッジの夜―基地の町・沖縄に生きる女たち』書評|どっちつかずの現実から目をそらさないために

 有刺鉄線のフェンス。その向こう側に広がる、沖縄の中のアメリカ。ならば、こちら側はアメリカの辺境としての沖縄だろうか。しばしば両者を媒介する、地元女性と米兵との恋愛――それは、ある種の沖縄現代史が半ば意図的に見落としてきたものかもしれない。フェンスに隔てられた「ふたつの沖縄」が重なり合うとき、家父長たちによって無視されてきた「厄介な現実」がリアルに浮かび上がる。

 

 著者が美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジで見た、「海兵隊員と一緒に笑い声を上げる迷彩服のへそ出しルックの沖縄人女性たち」。黒人米兵との結婚を熱望し、クラブ通いを続ける第2章の「イヴ」が、イメージとしては一番近いか。

 あるいは基地を所与の前提と見做す、若きアメリカン・ワナビーズ(アメリカ人になりたい人)たち。こうした若者たちの姿は、地獄のような沖縄戦に従軍看護隊として動員された女学生のイメージからも、時に島ぐるみで展開される抵抗運動のイメージからも理解しにくい存在だ。

 だが、いやだからこそ、著者はその実像をルポルタージュの形で捉えようとした。そこに埋もれている「声」があることに気付いていたから。

 

 目次には、各章のタイトルとして11人の名前が並んでいるが、人物像は実にさまざまだ。例えば、米兵と沖縄人女性との結婚を、基地の内側でサポートするアメリカ人の「アシュリー」。自身も元米兵の夫と結婚し、基地の外側で沖縄人女性からのトラブル相談に応じる「アリサ」の二人はコインの両面のよう。

 元黒人米兵と沖縄人女性の間に生まれた「ミヨ」は、「私が日本人かどうかはまだわからない」と語る一方、基地で働く傍ら、地元住民と海兵隊員との交流イベントを手掛ける「エミ」は、「ゲートからフェンスの中へ入ったとたん、私はちょっとだけアメリカ人になる」と語る。

 

 念のため言い添えておくが、著者が沖縄の植民地的状況に心を寄せているのは間違いない。が、こうした越境的な「女たち」の存在を描き、世に問うことは、どうしたって政治的な効果を生んでしまうだろう。「沖縄は基地を受け入れ、明るく共生しているではないか」と。

 だから、沖縄の伝統的な基地反対派は、もしかしたら彼女らの存在を「特殊な例外」として除外しようとするかもしれない。第11章の「アイ」が友人の米兵を抗議運動の現場に連れていき、「君がその手の女の子だとは思わなかったよ」と男性年長者に怒鳴られたように。

 

 本書はそうした政治的効果に対して十分に自覚的な上で、それでも越境する「女たち」を描く。見えてくるのは、社会が当然に有する曖昧さを寄せ付けない、一部の人々の抱く「単純化された幻想」である。その幻想に沿わない存在は、無視されるか、政治的に利用される。どちらにしても彼女たちの「声」がどこかに追いやられていることに変わりはない。

 強いられた沈黙の向こう側には、しかしタフで、曖昧で、複雑な現実が、幻想とは無関係にどんどん育っているのだ。実際、阿波根昌鴻を精神的支柱とし、辺野古での非暴力直接行動を続ける活動家「チエ」の孫たちは米兵と結婚したという。おそらく、沖縄ではこういうことが普通の日常なのだろう。それを無視すべきではない。それが本書の投げかけだ。

 

 アメリカンビレッジの夜から始まった旅は、読者をずいぶんと遠い場所まで連れて行く。そこでは、「アメラジアン」に押し付けられてきた否定的なイメージが、可能性としての曖昧さへと裏返る。

 私たちに求められるのは、曖昧な立場から発せられるどっちつかずの声に耳を傾け、幾重の抑圧の中で何度も先延ばしにされてきた「女たち」の結論を待ち、聞き取ることなのだろう。


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著者:アケミ・ジョンソン
訳者:真田由美子
出版社:紀伊國屋書店
初版刊行日:2021年9月10日

 

※重要作であるため、上限文字数を超過していることを申し添えます。

マイク・モラスキー『占領の記憶 記憶の占領』書評|沖縄 日本 アメリカ──占領とは何だったのか

 「占領」という言葉に含まれた暴力性について考える。その言葉が意味するところの実際の光景や、その場を支配していたはずの絶望や緊張を想像しようとする。「占領」があるからには、その前に戦争があり、「敗戦」という形での終結がある。戦争の一部であり、戦後の一部でもある占領。外国の軍隊によって社会をコントロールされるということ。いったいどのような経験なのだろうか。あるいはどのような経験として語られ、描かれてきたのだろうか。

 

 本書は、アメリカ出身の研究者による、日本の「占領文学」に関する文芸評論であり、比較文学である。

 占領文学とはその名のとおり、「アメリカ占領下での生活を描く物語」のことであり、著者はここで、芥川賞受賞作などの有名作品から、現在では入手困難な無名の作品までを並列に論じ、比較しながら、「文学という想像力のフィルターを通した時、日本の被占領経験はどのように再現されたのか」を問うている。

 その比較にあたって、導入される変数は主に二つ。一つは「ジェンダー(男性/女性)」、もう一つが「ナショナリティ(日本本土/沖縄)」だ。

 

 本書でも参照されている上野千鶴子ナショナリズムとジェンダー』の問題設定を借用して言うなら、この試みには二つの可能性があるだろう。一つは、すでに知られた正統的物語のアナザーサイドからの「読み直し」であり、もう一つは、まだ知られていない様々な女性の/沖縄の人々の物語の「掘り起こし」である。

 

 結論を急ぐなら、本書が見出すのは「要素としてはナショナリティよりもジェンダーの方が強く効いている」ということだ。それが日本本土の作品でろうと、沖縄の作品であろうと、「結局のところ、(中略)多くの物語は、男性によって書かれており、そして男性中心的視野で構成されている」というのである。

 沖縄との関連で言うなら、もっとも象徴的なのは買春まで含めた「性暴力」の描写であろう。大城立裕の「カクテル・パーティー」が、小島信夫の「アメリカン・スクール」が陥った日本/アメリカという二項関係を突破し、加害者と被害者の錯綜した関係を効果的に描き出していると認めながらも、結局のところ、そこで描かれる被害はあくまで家父長制をバックにした「父」にとっての象徴的被害に過ぎず、この作品が「強姦をめぐって展開しながら」、実際には「強姦はもっぱら男性主人公の被害者性を仕立て上げるための裂け目であり欠如であるにすぎない」と断ずる。

 

 この点は、娼婦の手記として出版された『日本の貞操』や『女の防波堤』を論ずる第4章でさらに追及され、女性の純潔や貞操が男性作家たちの手によって「性的な領土」として象徴化されてきたことを暴いていく。「日本本土・沖縄ともに、男性作家たちは敗戦と占領の屈辱的経験を女性への性的暴力という形で露わにしてきた」というわけである。

 無学を承知の上であえて挑戦的に言うが、フェミニズムの分野での蓄積を思えば、これはある程度予期された結果ではある。沖縄や基地の街からの「読み直し」については、言語に代表されるアメリカ文化との距離感や、松本清張「黒地の絵」などを軸に第3章で議論される人種差別の問題も含めて刺激的であったが、女性目線からの「読み直し」は先行理論の適用を確認したことにとどまっているように思えた。

 

 それならば女性作家たちは、占領期の女性たちをどのように描いてきたのか。白眉はやはり、第5章で披露される女性目線からの「掘り起こし」の方だろう。

 平林たい子「北海道千歳の女」を「日本の占領文学を考える上で欠かせない一作」とした上で、戦後間もない時期に警察と政府官僚が組織した特殊慰安施設協会(RAA)に対する挑発的な態度も読み取りつつ、家父長たちによって女性に課せられた「二重基準」を撹拌していく。

 見えてくるのは、占領そのものではなく、戦時下から続く女性に対する社会や家庭内での無数の抑圧形態であり、その中においては結婚も売春も変わりないという、これまたフェミニズムの分野では少なからず聞き慣れた、だが確かにラディカルな結論を導いていく。

 こうした抑圧の相対化は、「自国の指導者ではなく、他国の占領者によってもたらされた新しい自由」によりなし得たものと解釈できるだろう。女性に対して、必ずしも占領軍が新たな抑圧を生んだのではない。「アメリカ人占領者は、旧来の問題を表面的に一新したにすぎない」のだと本書は言う。

 

 先行の書評がほとんどないため、字数制限を無視してやや網羅的に書いてきたが、議論全体を概観するなら以上のとおりである。未読の作品が圧倒的に多かったが、「占領文学」を読んでいく上でのブックガイドにもなろうかと思う。

 

 一方、私が自分の中の問題意識としてもっとも気になったのは、「加害者の被害者性」に関する議論である。一方では、強姦された娘の被害者性を家父長として引き受けようとする男たちの動機を、「被害者性はいわば免罪を約束するものである」からだと見抜いておきながら、松本清張「黒地の絵」をして、「黒人兵は彼ら自身の社会における人種差別の被害者である」ことをもって加害者を擁護するのである。

 確かに、家父長たちが受けるのが象徴的被害である一方、黒人兵らが受けるのは人種差別というもっと直接的な暴力ではある。しかし、それで黒人兵らの犯した罪は多少なりとも値引きされるのだろうか。だとすれば、あくまで「加害者も被害者である」という論理構造だけを見た場合、黒人兵に対して同情を示すのとまさに同じ理由で、家父長たちの責任を解除してしまうことにはならないか。この点はよりシビアに検討されるべきであったように思う。

 

 この他、本書は第7章で現代の占領文学をピックアップしつつ、最後に目取真俊を論じて終わる。全体として、すでに述べたように比較文学であり、相対的には沖縄とジェンダーに比重を置いた構成の割には、「沖縄の女性作家」の作品にほとんど言及されないのは、本書の瑕疵と言うより、著者の言うとおりある意味では歴史の限界なのかもしれない。

 それでも本書が、沖縄に対して特別な関心を示していることにはもう少し言及しておくべきだろう。「沖縄を単純な『癒しの島』に回収できない側面が根強く残っている」、「少なくとも沖縄本島では、いわば『占領の影』がいまだに色濃く投影されている」、いずれも文庫版に寄せて2018年に加えられた言葉だ。

 

 と同時に、「アメリカ占領期の記憶は、日本国民の意識から大きく後退してきた」と、著者は現在の視点から書いている。事実そうなのだと思うし、本書が少なくともSNSでほとんど話題になっていないのもその証左かと思うが、いずれにせよ、「焼跡」とも「金網」とも遠い場所で暮らす人々がなすべきは、これらの論点をバランスよく消化した「傑作」文学の登場を待つことではないだろう。

 沖縄をめぐるフィクションと現実の絶えざる弁証法の中で、本土側の願望を投影しただけの「フィクション」が無自覚に強化してしまう沖縄にまつわる紋切り型をひとつひとつ否定していくこと。そして、目取真俊が長らくフィクションではなく「現実の側」に留まっている意味から目をそらさず、上間陽子が差し出した「海」を素手で受け止めること。そこから先に進んでいくことが簡単ではないとしても、何度でもその場所に立つしかない。

 

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著者:マイク・モラスキー
訳者:鈴木直子
出版社:岩波書店岩波現代文庫
初版刊行日:2018年7月18日